大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

大津地方裁判所 昭和63年(わ)103号 判決 1995年6月30日

本籍《省略》

住居《省略》

工員 A

昭和一〇年六月八日生

右の者に対する強盗殺人被告事件について、当裁判所は、検察官西浦久子、同坂東由晴出席の上審理し、次のとおり判決する。

主文

被告人を無期懲役に処する。

未決勾留日数中一八〇〇日を右刑に算入する。

理由

一  被告人の身上、経歴等

被告人は、昭和一〇年に滋賀県蒲生郡《番地省略》でBの三男として出生し、一時期は実父とともに広島県内で生活したこともあったが、小学校三ないし四年ころ日野町内に戻り、義務教育終了後、昭和二五年ころから食肉さばき職人として働くようになり、滋賀県八日市市の甲野肉店、大阪市内の乙山食肉店、神戸市内の丙川肉店、京都市内の丁原食肉店等転々と勤務先を変えていた。

昭和三五年には、Cの養子となるとともに、同人の長女D子と婚姻し、妻の実家を生活の本拠としながら、従前同様、近畿各地の精肉店に勤務した後、昭和三九年ころからは、戊田協同組合連合会の食肉さばき職人として勤めていた。

しかし、昭和五九年春に、道路上で転倒して負傷し、入院したことを契機に、前記勤務先を退職し、同年七月ころから滋賀県甲賀郡水口町内所在の甲田株式会社の夜勤専門の工員として稼働するようになった。

その間、被告人は、妻D子との間には一男二女を儲けた。

被告人は、妻と結婚後、乙野教を信仰するようになり、同教で「お浄め」と呼ばれる儀式(患部に手をかざすと病気等が治るとされる。)を行うこともあった。

二  E子の身上、生活状況

E子は、大正四年に滋賀県蒲生郡《番地省略》で出生し、昭和一六年に夫Fと婚姻し、一時期は東京で生活したが、昭和二〇年ころ、夫、養子Gらと日野町内に戻り、夫と飲食店等を経営した後、昭和二六年ころから滋賀県蒲生郡《番地省略》において酒類小売販売店(屋号 丙山酒店、あるいは丁川酒店)の経営を始め、昭和五六年に夫が死亡した後は、従業員H子を雇って、一人で店を経営するようになった。昭和五九年一二月二八日当時は、前記場所に店舗兼住居を構えて、叔母I子(当時八九歳位)と暮らしていた。

なお、E子方の西側隣家は同女の甥にあたるJの住居であり、東側隣家は同女の弟のKの住居兼事務所であった。

E子と夫との間には実子はなく、親族のGを養子としていたが、同人は大学卒業後、E子とは別居し、奈良市内で薬局を経営していた。

三  E子経営の酒店での被告人の飲酒

E子方酒店では、注文を受けて商品を配達するという営業が中心であったが、店舗を訪れる顧客に対して酒を量り売りし、顧客が店頭でそれを飲酒することもあり、このような客を壺入り客と呼んでいた。

被告人は、結婚後飲酒するようになり、昭和三七年ころからは特に飲酒の量が増え、自宅で飲むだけでは物足りず、そのころからF夫妻が経営する酒店に壺入り客として出入りするようになった。被告人の妻D子は、自宅での被告人の飲酒量を制限しただけでなく、被告人が外で飲酒することを嫌い、被告人の給料を管理して、ごく少額の小遣いしか渡さないようにしていたが、被告人の飲酒量は増えて行き、昭和五九年当時は頻繁に同店でつけで飲酒していた。

同店の酒等の販売方法は、ほとんど掛け売りで、通常は半年から一年に一回まとめて顧客が代金の支払いをするのであるが、被告人の場合は、つけがある程度たまるとE子が支払いを請求することもあった。

E子は、被告人が店で寝込んだり、夜遅くまで帰らないので困ると周囲に愚痴をこぼすこともあったが、被告人と大きな悶着を起こしたことはなく、被告人も単に壺入り客として出入りするだけではなく、稀には酒類の配達を手伝ったり、同女を歯医者に連れて行くなど、比較的親しく交際していた。

本件事件当時、被告人はE子方店舗に対し、約八万四〇〇〇円のつけが残っていたが、後日被告人の妻が支払った。

四  犯行に至る経緯

E子は、昭和五九年一二月一〇日ころ、被告人を含む壺入りの常連客に対し、「年末は店が忙しいので壺入りは控えて欲しい。」旨依頼した。しかし、被告人は、その後も二、三回は同店に来店していた。

同月二七日夜から同月二八日午前六時ころまで、被告人は前記甲田株式会社で働き、同日午前七時ころ帰宅した。同社は同日から年末の休業に入ることになっていた。

被告人は、帰宅した後、同日夕刻ころまで、親族のL方を訪問したり、アルバイトを探すため近隣の養鶏場を訪れるなどして過ごしていた。同日午後七時ころ、被告人は、知人のM子方に赴いたが、同女宅で同女の夫N、Oらが飲酒しているのを窓越しに眺めただけで、同所を立ち去った。

(罪となるべき事実)

被告人は、かねて客として出入りしていた酒類小売販売店経営者E子(当時六九歳)を殺害して金品を強取しようと考え、昭和五九年一二月二八日午後八時過ぎころから同日午後九時ころまでの間、滋賀県蒲生郡《番地省略》所在の同店内及び同町大字村井一九八三―五椿野台団地宅造地分譲番号三一三号地付近を含む同町内若しくはその周辺地域において、同女の頸部を手で締め付け、同女を頸部圧迫に基づく窒息により死亡させて殺害した上、そのころから同月二九日未明ころまでの間に、滋賀県蒲生郡《番地省略》所在の同店内において、同女所有にかかる一〇円硬貨、五銭硬貨他一六点(時価不詳)在中の手提金庫一個(時価二〇〇〇円相当)を強取したものである。

(証拠の標目)《省略》

(本件公訴事実と被告人、弁護人の主張)

一  主位的訴因及び予備的訴因

本件公訴事実の主位的訴因は、

「被告人は、かねて客として出入りしていた酒類小売販売店経営者E子(当時六九歳)を殺害して金品を強取しようと企て、昭和五九年一二月二八日午後八時四〇分ころ、滋賀県蒲生郡《番地省略》の同店内において、客として飲酒した際、応対していた同女の背後からいきなり頸部を両手で絞め付け、同女を頸部圧迫に基づく窒息により即死させて殺害した上、同月二九日午前六時ころ、同所において、同女所有の現金五万円及び手提金庫等一五点(時価合計二〇〇〇円相当)を強取したものである。」というのであり、予備的訴因は、

「被告人は、かねて客として出入りしていた酒類小売販売店経営者E子(当時六九歳)を殺害して金品を強取しようと企て、昭和五九年一二月二八日午後八時すぎころから同月二九日午前八時三〇分ころまでの間、滋賀県蒲生郡《番地省略》の同店内及び同町大字村井一九八三―五椿野台団地宅造地分譲番号三一三号地付近を含む同町内若しくはその周辺地域において、同女の頸部を手で絞め付け、同女を頸部圧迫に基づく窒息により即死させて殺害した上、そのころ、同所において、同女所有の在中現金額不詳の手提金庫等一五点(時価合計二〇〇〇円相当)を強取したものである。」

というものである。

二  被告人及び弁護人の主張

1  被告人は、当公判廷において、右公訴事実の各訴因の事実とも否定し、昭和五九年一二月二八日夜には、知人のM子方で同女の夫Nらと飲酒していて寝込んでしまい、翌二九日朝まで同女方にいたとのアリバイを主張している。

2  弁護人の主張は多岐にわたるが、これを総合すると

①  本件では有罪の決め手となる物証はなく、各種の情況証拠はいずれも証明力が不十分である。

②  被告人の自白は、任意性、信用性ともにない。

③  被告人の主張するアリバイは信用できる。

というに尽きる。

(当裁判所の判断)

第一事件の概要について

一 事件の発生及び捜査の経過

1 昭和五九年一二月二八日は、E子方酒店は平常とおり営業をしており、同日中に、取引銀行である滋賀銀行日野支店の係員が、同女から二三〇万円(内三〇万円は小切手)を預かった。(甲三三)

同日午後六時ころ、店員のH子は配達のため酒店を出て、配達を済ませた後、そのまま帰宅した。(証人H子第一回)

H子が店舗を出た後も、同店はしばらく営業しており、若干の客が注文等のために店舗を訪れていた。(証人P)

2 同月二九日午前一〇時過ぎに杉村が出勤したところ、店舗の前の路上に客であるQ、R某女、同店で使い走り役をしていたSらがおり、Qらが「おばさん(E子)がいない」と訴えた。

H子は、近隣のT方(ホルモン焼店 屋号戊原)、J方、K方等に対して、E子がいないか、伝言等が残ってないかを聞いたが、同女の所在は判明せず、H子はK方敷地を通って、E子方の玄関から店舗に入り、店舗を開けて営業を続けた。(証人H子第一回、同Q)

3  H子は、酒店の営業をしながら、E子の帰りを待ったが、何の連絡もないため、同日午後にGに対して同女の所在がわからないことを連絡した。Gは、連絡を受けて、当日午後七時三〇分ころにE子方までやってきた。

J等の親族や近隣の者も、E子が夕方になっても帰宅しないことを案じて、集まった一〇人程度で付近を探すなどした。

翌三〇日には、地域の有線放送により、E子が行方不明になり、捜索が行われることが放送され、親族や近隣の者が、周辺の山や川等を中心に同女の行方を探したが、何の手がかりも得られなかった。

この間、E子方に集まった者に対し、親族らが店舗内で茶や酒を出すなどしてもてなしており、同店舗に立ち入る者は多数に上った。

一方、Gや親族らは店舗や住居からなくなっているものがないかを調べて回り、その過程で出てきた物を整理したり、不要物を燃やして処分するなどもした。(証人H子第一回、同G第一回及び第二回、同J)

4  警察は、E子が何らかの事件に巻き込まれているとの可能性があると判断し、昭和六〇年一月五日同女方住居兼店舗に対して、実況見分及び鑑識活動を行った。(甲一六、証人U、同V、同W)

後に、同日の鑑識活動で得られた指紋等のうち、店舗畳間の座敷机の引出内の丸鏡(両面鏡)から、被告人の指紋が検出されたことが確認された。(甲一八)

5  同月一八日、滋賀県蒲生郡日野町村井一九八三―五椿野台団地宅地造成地分譲番号三一三地の北西隅の草むら中において、たまたま同所を通りかかったXが、普段着姿のまま身体を折り曲げるようにして倒れているE子の死体を発見し、翌日、警察官に対してその旨を通報した。(証人X、甲一)

6  同年四月二八日、同町大字石原字鳥ケ谷一二六六番地の一付近の山林において、わらび採りのため同所を通りかかったY子とZ子が損壊した手提金庫を発見した。同女らは、付近に散らばっている金庫の内容物と思われる書類の中に、E子の名を記載したものを見つけたことから、ただちにH子に連絡し、H子が警察官に連絡して、Y子らの案内で、H子や警察官らが現地に赴き、右金庫がE子方にあったものであることを確認した。(証人H子第一回、同A'、甲二〇)

右金庫の発見により、E子は、殺害された上、金庫を奪取されるという強盗殺人の被害に遭ったものと考えられるようになった。

7  被告人は、生前のE子と比較的親しく交際していたのに、同女の捜索に加わらず、死体発見後に営まれた葬儀にも欠席するなどしたため、地元では被告人が同女を殺害した犯人であるとの噂が流布するに至った。

一方、警察においても被告人に対する容疑を持つようになった。

同年九月一七日、警察官は、被告人及び妻を午前中から日野警察署に任意で同行し、E子に対する強盗殺人についての取調を実施した。

被告人は、事件への関わりを否定し、昭和五九年一二月二八日夜の行動については出勤していた、または自宅で寝ていたと供述した。警察官らは、被告人に対してポリグラフ検査も実施したが、被告人が当時飲酒していたために、有効な検査値を得ることができなかった。

一方、被告人の妻は、当日は被告人はM子方に外泊したはずであり、本件事件には関わっていないと供述した。

しかし、その後別件の強盗事件が発生し、右事件の捜査のために捜査員を割り振る必要ができたため、しばらくの間、本件事件の捜査は全く進展しなかった。(証人B'第一回)

8  昭和六一年三月に本件の捜査主任官に着任した滋賀県警本部捜査一課課長補佐B'警部は、更なる証拠の収集を指示し、その一貫として、E子の死体が付けていた衣服の微物の鑑定や、被告人の生活実態調査が実施された。(証人B'第一回)

このような警察の捜査活動に対し、被告人は警察の尾行が執拗過ぎるとC'町議や従兄弟のD'(当時日野消防署長)に相談したが、警察に直接の抗議はしなかった。(被告人の公判供述 第三九回公判、証人D')

微物鑑定の結果等から、いよいよ被告人への容疑を強めた警察は、昭和六三年三月上旬、大津地方検察庁の三席検事であったE'検事に捜査の進め方につき相談を持ちかけた。E'検事は、警察に対し、被告人の取調を在宅のまま実施し、詳細な自白が得られれば、その段階で逮捕状を請求するとの方針を指示し、更に、逮捕状請求の前に同検事に連絡することや、取調においては、絶対に暴行、脅迫、誘導を行わないこと等の注意を与えた。(証人E')

9  同月九日午前八時ころ、警察は、被告人と妻を日野署に任意同行し、取調を実施した。被告人の取調を主任として担当したのは、滋賀県警察本部捜査第一課所属のF'警部補であり、他に補助官として同課所属のG'巡査部長も加わった。取調は、休憩をはさんで午後一〇時ころまでなされたが、被告人はアリバイを主張して、事件への関与を否定し続けた。

同月一〇日は午前八時ころから午後一〇時ころまで、同月一一日は午前八時ころから午後一一時ころまで、同様に日野署で被告人の取調が行われたところ、被告人は当初は頑強に事件への関与を否認していたが、一一日夜に至り、被害者を殺害して金庫を奪ったことを認める供述を始めた。

翌一二日も、被告人に日野署へ任意出頭を求めて、取調を実施したが、前日夜の自白を維持し、殺害状況の概略を供述した。ここにおいて、警察は、被告人に対する逮捕状の発付を得て通常逮捕に踏み切った。(証人F'、G'、B'第一回)

10  被告人は、同月一三日に行われた勾留質問においては、裁判官に対し、「現金を奪ったのは間違いないが、その余はわからない」と述べた。しかし、勾留期間中は、捜査機関の取調に対しては強盗殺人について自白を維持し続け、この間に金庫発見現場、死体発見現場等への被告人による引当捜査も実施された。

同月三〇日に、弁護人の請求により勾留理由開示手続が行われたが、被告人は、「これだけ証拠があれば、やっていないとはいえないと思う。」「日野署の警察官には親切にしてもらっている。」等と陳述した。(乙二六、弁二二等)

11  被告人は、同年四月二日、E子に対する強盗殺人により起訴され、同年五月一七日第一回公判が開かれ、右期日においては、犯行を全面否認し、事件当日は「お浄め」に行き、その帰りにM子方で飲酒をして寝てしまい、翌朝コーヒーを飲んで帰った、と主張した。

第二死体、金庫、事件に関連すると思われる現場の状況等

本件について、E子を殺害し、手提金庫を奪取した犯人と被告人の同一性について判断を加える前に、その前提として死体、被害品である手提金庫等の状況、これらの発見現場や被害者方店舗の状況等について検討する。

一 死体の発見現場と死体の状況について

1 死体発見現場

E子の死体が発見された椿野台団地宅造地は、日野川ダム下流方向の山裾に沿って開発された新興宅造地であり、付近には住宅や空き家が点在するものの、多くの分譲地が放置されたまま雑草や雑木が繁茂しており、普段は閑散としている。

E子の死体が発見された分譲番号第三一三号地は、同団地の入り口の椿野台バス停から東方へ山裾方向に直線で約五七〇メートルの地点に所在し、同団地の最奥部に位置し、その北東側は松の自生する山裾で、北西側はアスファルトで簡易舗装された幅員約六・九四メートルの道路に接しているが、右道路の北東部は松林に接して行き止まりとなっている。当時から付近には、一・八ないし三メートル位の高さの雑草や枯草が密生し、なかば原野化していた。

E子の死体は、右土地の北隅の地点において、雑草や枯草の中で発見された(別紙図面一のとおり)。右場所の北約八・二メートルの場所に街路灯が設置されているが、これには電源がなく、点灯しない。死体の頭部付近には、高さ約一メートルの細い松の木が位置しており、この松の木の根元より上へ約四〇センチメートルの小枝が二か所折れており、折れ口は既に変色していた。(甲一、平成二年一月二三日実施検証調書、平成五年六月一〇日実施検証調書)

2 死体の状況

(一)  外見等

発見当初のE子の死体は、頭部を南東にして、ほぼ左側臥の姿勢で、両足を揃え、両膝蓋部をくの字に折り曲げ、両上腕を腹部方向で組み、両手首をポリプロピレン製の紐で緊縛された状態であった。死体の着衣は、上半身は上からエプロン、スモック、毛糸ベスト、毛糸カーディガン、毛糸セーター、長袖肌着を、下半身は、上からゴム入りズボン、毛糸腹巻き、パンスト、パッチ、長ズロース、パンティーというものであり、足元はパンストの上に靴下を履いていたが、履き物はなく、死体発見現場付近からも履き物を発見することはできなかった。

エプロン、スモック等は、腹部中央付近で腹巻きの上方約九センチメートル程度、背部付近で腹巻きの上方約三二センチメートル程度めくれており、一方、ズボン上部は腰部から下方へ約二〇センチメートルずり落ちている状態で、このため腹部、腰部の一部の皮膚が露出していた。

エプロンのポケットには、一〇〇円硬貨二枚、一〇円硬貨三枚、まるめられたハナカミ、電力使用量表が入れられており、外側の着衣には枯草等が付着していたが、着衣には損傷部位は認められなかった。(甲一、五、六、八、証人X)

(二)  解剖所見等

E子の死体は、身長一五五センチメートル、体重四一・四キログラムであった。

顔面は、やや著名にうっ血し、左右眼結膜に溘点多数があったほか、顔面には、左耳前部表皮剥奪、右頬後部表皮剥奪・皮下出血、右耳垂前部皮下出血の損傷が、頸部には、右側頸上部表皮剥奪、左下顎骨下縁部表皮剥奪、左下顎角下部表皮剥奪(周囲に皮下出血を伴う)、頸部をほぼ一周し表皮剥奪を呈する策条痕(幅約一センチメートル)、頸部皮下の顎二腹筋前面の被膜下の出血、右甲状舌骨筋背面の筋内出血、舌骨骨折(右上端から一・八センチメートル下部)の損傷が存在した。

これらの所見から死因は窒息であり、上記頸部損傷のうち右側頸上部表皮剥奪、左下顎骨下縁部表皮剥奪、左下顎角下部表皮剥奪(周囲に皮下出血を伴う)は手指の圧迫に基づくもので、またその際に舌骨骨折が生じたと考えられる。これらの圧迫痕には生活反応があるが、頸部をほぼ一周する策条痕には生活反応がない。

これらの痕跡からみて、E子は右利きの犯人によって扼殺された後、頸部をひも様の策条物で絞められたと考えられる。策条痕の状況からみて、ひも様のものを頸部の前から後に回し、後部または左後部で交差して、再び前に持ってきて絞めたと思われるが、紐様のものを巻いた回数が一周のみか複数周であるかや、紐様のものに結節を作ったかは明らかでない。また、手首に巻かれていたポリプロピレン製の紐によっても、この策条痕を印象し得る。

死体は、発見当時、死後硬直は寛解し、角膜は高度に混濁していたことから、死後かなり日時(少なくとも二、三日以上)が経過していたと考えられるが、腐敗はあまり進行しておらず、殺害後ずっと概ね摂氏四度以下の冷所に置かれていたと推定できる。

ちなみに、一般に死体は摂氏八度以上の場所に置かれると徐々に腐敗が進行するのであるが、昭和五九年一二月二八日から昭和六〇年一月一九日までの間、日野消防署の観測では、日中の気温が摂氏八度を超えたのは同月一九日のみであり、摂氏七度を超えた日も四日間にすぎないことが認められる。(甲九、一五、証人H')

3 死体の手首を結束した紐について

E子の死体の両手首は、腹部付近で左手首を上側、右手首を下側にして、手首周囲を紐で三重に巻かれて結束されていた。

死体の手首を結束した紐は平型ポリプロピレン製で、全長は約一五七・三センチメートル、広げた幅は約八センチメートル、白色半透明のもので、手首に巻かれていた輪の直径は約七・五ないし八センチメートルであった。

材質自体は、特殊なものではなく、梱包用として一般に市販されており、E子方店舗にもポリプロピレン製の紐の束が置かれていた。

この紐は、もともと二本の同種の紐を二重片結びで結んで一本にしたもので、二本の紐のそれぞれの片端(別紙図面二の(エ)(オ))に焼き切った痕跡があるが、それぞれのもう片端(同図面(ア)(イ)(ウ))は普通に刃物等で切断されている。

結束方法は、右手掌側(下側)の部分で、紐の両端部分が交差され、交差部分は結び目を作らず、互いにかみ合う形で折り返されているのみで、折り返した後、一方の端のみが三重に巻いた紐の下側に差し込まれて止められており、もう一方の端は折り返されたままになっている。

紐の形状及び結束方法の図解は別紙図面二のとおりである。(甲一、三、五、六、一六、証人H子第一回)

二 手提金庫とその発見現場について

1 金庫発見現場

E子方にあった手提金庫が発見された現場は、通称石原山という山林内にあり、関西電力の甲賀桜谷線二一号鉄塔の下を東西に走る工事道を、同鉄塔の東端から東側に約五九・六メートル進んだ後、北側の約二五度の急斜面を約一三・六メートル降りた付近に立つ松の木の根元である(別紙図面三のとおり)。発見当時、道から手提金庫に至る手前に、腐った松の木が横倒しになっていた。

現場付近は、昭和五八年に関西電力の鉄塔工事が終了した後は、近隣の者が山菜採り等に訪れる他は、ほとんど人車の立ち入らない場所である。

現場付近の南東方向には、甲山りんご園という果樹園が存在し、前記鉄塔下の工事道は右りんご園まで通じており、同りんご園から鉄塔下付近までは、一応自動車で走行が可能である。町道石原鳥居平線(通称広域農道、または農面道路)から、同りんご園までも自動車で通行できる。しかし、道路から発見現場までの急斜面は徒歩でなければ入れない。また、鉄塔下に至るには、県道石原八日市線(通称野出道)から、尾根伝いの細い道に入り、前記鉄塔の下まで至ることもできるが、この道は徒歩でなければ進入できない(別紙図面四のとおり)。

金庫発見現場の北西方向には、通称前ケ谷溜という池が存在するが、前記鉄塔下付近や金庫発見現場からは、木等に視界をさえぎられ、ほとんどこの池を見通すことはできない。(甲二〇、証人A'、平成二年一月二三日実施検証調書、平成五年六月一〇日実施検証調書)

2 発見された手提金庫の状況等

発見当時、手提金庫は、裏返しになった中箱の上に蓋を開けたまま裏向けにおいてあった。その周辺には、内容物と思われるものが工事道方向に点々と散乱していたが、その主な物は、一〇円硬貨、五銭硬貨、赤色プラスチックラベル(東京オリンピック記念銀貨の付属物と思われる。)、外国切手、名刺、御守、E子名義の診察券等であり、手提金庫内にもがま口型小銭入れ等が残っていた。

右手提金庫は、外側部分は金属製で、内側に桐製内枠があり、外側は現在は全体にベージュ色ないし灰色(一部に淡い黄緑の塗料が残る。)で、大きさは、縦約二四・九センチメートル、横約三五・一センチメートル、高さ一四センチメートルのもので、内側には蓋付きの中箱(手提金庫本体の下にあったもの)が設置できるようになっている。発見時には、正面の左右に二か所あったダイヤル部分(ダイヤル軸、ダイヤル、ダイヤルウケ)はいずれも欠落し、正面中央部分の金属製ネームプレートは左側の取付部が破損し、外側へ変形しており、蓋も後ろ側のヒンジ部が破損変形して前部が右側へずれて完全に閉まらない状態にあり、円滑に開閉できず、その他本体外側には多くの凹損や擦過痕等が印象されていた。

右手提金庫は、元は、鍵による一つの施錠とダイヤルによる二つの施錠が備わっていたが、発見当時、施錠装置は破損、変形、部品の欠落により作動させることができない状態になっていた。

なお、手提金庫発見現場の周辺からは、欠落したダイヤル軸、ダイヤル、ダイヤルウケ等は発見できなかった。(甲二〇、二一、二二、二三、証人A'、職権一四)

3 被害者方での手提金庫の利用状況

前記手提金庫は、昭和四七年ころ、甲川酒造株式会社が改組二〇周記念時に記念品として配布したもので、E子の亡夫Fが同社からもらい、以後使用していたと考えられる。E子失踪直前には、右金庫を含めて三つの金庫が同女方に存在し、本件手提金庫以外の二つの金庫のうち一つは、小型の暗緑色の手提金庫(錠が壊れたもの)で、他方は、家具調の据付金庫であり、二つは同女方でそれぞれ発見されている。

E子は、本件手提金庫を長期外出時には隣家のJ方に預けるなど大事に保管しており、店員のH子が被害者から本件手提金庫の中を見せられた際(時期は特定できない)には、本件手提金庫中には「太陽の塔(昭和四五年大阪府にて開催の万国博覧会のシンボル)」のついた記念メダルや古銭等が入っており、E子の養子Gも右金庫中に古銭、記念硬貨、記念メダル類が保管されていたことを確認している。この古銭類は、もとは亡Fが収集したもので、Fの死後、一時期、E子はビニール袋に入れた状態で養子のG方に預けていたが、同人方は不用心であるとして、再び同女が自宅に持ち帰って保管していた。

E子は、普段、本件手提金庫を店舗部分に持ち出すことはなく、同女失踪の直後に同女方の奥六畳間の押入内に右金庫の大きさに相当する痕跡が認められた。(甲一六、一六六、証人H子第一回及び第二回、同G第一回及び第二回、同J)

三  被害者方店舗の状況

1  位置関係、間取り等

E子方は、日野川西方向約五〇〇メートルの小高い丘陵地に点在する豊田集落の一角にあり、南側は幅員約三・四メートルの町道に接しており、付近一帯は木造一般住宅が立ち並ぶ住宅街である。同女方の東側隣家は弟であるK方で、西側隣家は甥のJ方で、北側は傾斜角度約六〇度で高さ約九・八メートルのコンクリートブロック積の石垣によって上方の畑地と隔てられており、町道を挟んだ向かいはI'方である(別紙図面五のとおり)。

E子方の建物は、住居兼店舗となっている母屋一棟と離れ一棟からなり、他に敷地内にはビニール波板屋根だけの物置や、若干の植木の生えた庭がある(別紙図面六のとおり)。

母屋は、木造瓦葺中二階建店舗、木造瓦葺平家倉庫、奥座敷等からなっている。店舗部分は町道に面した部分の中央にあり、土間、畳間(六畳)、台所(板間及び土間からなる)等からなり、店舗部分の東側及び西側は倉庫となっている。西側倉庫の北側は住居部分となる奥座敷であり、奥六畳間、こたつの置いてある間(広さ二・一メートル×一・八メートル)、一〇畳間、玄関等からなる。西側倉庫と店舗の土間の間は、段差があり、しきりの板戸(開閉できる)が設けられている。東側倉庫は店舗の台所と板戸で通じている他、中庭からも東側倉庫に出入りできるが、町道側には出入口はない。

離れは、六畳及び四畳半の各板間、洗面所等からなり、住居として使用されていた。

店舗部分には、道路に面した出入口が二つあり、その東側出入口は店舗土間部分にあり、これには内側にはサッシ製二枚ガラス引戸(シリンダー錠付)、外側には二枚板戸(落とし錠付)が設けられ、二重の引戸となっている。西側出入口は西側倉庫にあって、内側はサッシ製一枚引戸(錠な しつっかい棒使用)、外側は右引板戸(落とし錠付)が設けられ二重の引戸でできている。奥座敷、東側倉庫及び離れの出入口は中庭に面しており、奥座敷に通じる玄関はサッシ製二枚引戸(シリンダー錠付)、離れの出入口は片開き戸(円筒錠付)となっており、東側倉庫の出入口は板戸(落とし錠付)である。中庭へは道路に面した鉄製扉を通って入るが、K方から中庭に出ることもできる。(平成元年五月一九日実施検証調書、甲一六)

昭和六〇年一月五日に実施された右店舗兼住居の実況見分の際には、店舗畳間の中央にはホームこたつが置かれ、その西側に火鉢式石油ストーブが北側壁に接して木製座り机、東側壁に接して和タンス、小型ロッカー及び空き箱などがそれぞれ置かれてあり(別紙図面七のとおり)、その余の部分にも商品の入った段ボール等があった。店舗土間部分、倉庫には雑然と商品が積まれていて、西側倉庫内は通路約六〇センチメートルを残して南、北、西に酒箱が積み重ねてある状態であった。そして、店舗土間の陳列棚にはポリプロピレン製の紐の束があり、西側倉庫内のウイスキーの箱の上にも種類の異なるナイロン縄の束があった。台所のストーブ上には両手鍋があり、中には、古くなった肉、白菜、水菜等の炊いたものが残っていた。離れの片開き戸の円筒錠付近及び右戸の枠の部分には硬い物でこすった様な痕跡が認められた。

2  被害者の失踪が判明した昭和五九年一二月二九日朝の状況

(一)  昭和六〇年一月一八日付実況見分調書(甲一六 同月五日実施)中の立会人H子、G等の指示説明の概要は次のとおりである。

昭和五九年一二月二九日朝にH子が出勤した際には、町道に面した東側及び西側出入口は両方とも閉まっていて、施錠されており、西側出入口のサッシ戸には内側からつっかい棒がなされていた。

町道から中庭に通じる鉄製扉は閉まっていたが、施錠の有無は覚えてない。東側倉庫の中庭側の板戸は閉まっており、施錠もされていた。奥座敷の玄関は戸は閉まっていたが、施錠はされていなかった。西側倉庫と店舗土間の間の板戸は閉まっており、東側倉庫と台所の間の板戸も閉まっていたが錠はかかっていなかった。店舗畳間と台所の出入口は開いていた。

離れの出入口の片開き戸は九〇度くらい外側に開いていた。離れ六畳板間にはE子のエプロンやズボン等が脱ぎ捨てられていた。

H子が母屋に入ったところ、こたつの置いてある間にI子が座っており、こたつの上にはコップが二個放置されていた。

店舗畳間のホームこたつのスイッチは入っておらず、ストーブは火が消えた状態であった。右ホームこたつの中には、暗緑色の小型手提金庫が隠されていたが、右金庫には合計三〇〇〇円位の小銭が残されたままであった。店舗のレジスターにも合計三〇〇〇円程度の小銭が残っていた。

住居部分の奥六畳間に置かれていた家具調据付金庫は、鍵穴に右金庫の鍵(玄関入口等の鍵と束になっている)が金庫に差し込まれていたが、ダイヤルが動かしてあったので開かない状態であった。右金庫中には現金二九万円余や預金通帳等が在中していた。

奥座敷一〇畳間の北側に、西向きに布団(一組と思われる)が敷いてあった。

(二)  ところが、第八回及び第九回公判期日において、証人H子は、昭和五九年一二月二九日朝の出勤時の状況等に関して次のように供述している。

「同日朝出勤すると、店の前の路上で客のQらが『おばさんがいない。』と言っていた。その際、店舗の東側出入口は少し隙間が開いており、西側出入口は閉まっている状態であったが、現実に触って開く状態かどうかは確かめなかった。まず、戊原(T方)及びJ方に赴き、E子がどこかへ出かける旨の連絡がなかったかを尋ねたものの、いずれも連絡は聞いていないとの返答であったので、K方からE子方の中庭に入り、無施錠であった奥座敷の玄関から店舗に入り、東側出入口を開けて客を店舗内に入れた。その後西側出入口も開けた。

東側出入口はサッシのシリンダー錠及び板戸の落とし錠を外して開けたように思うが、西側出入口のサッシにつっかい棒がしてあったかは記憶がなく、板戸は落とし錠を外して開けたつもりであったが、今考えるとはっきり覚えていない。

昭和六〇年一月五日に実施された実況見分に立ち会った際は、東側及び西側出入口はともに施錠されていたと頭から思って、そのように説明したが、その後同年五月ころまでの間に西側出入口が施錠されていたかははっきりした記憶がないことに気付き、供述を訂正した。

奥座敷のこたつの置いてある間にいたI子に対し、E子がどこへ行ったかを訪ねたが、I子は『わし一人おいてどこかへ行った。』等と言うばかりで要領を得なかった。

台所内には盆に乗せた汚れた皿やコップ等があったものの、酒類の並び方に特に異常はなく、当日はなくなっているものがあることには気づかなかった。

後日、E子が普段庭等を歩くのに履いていたピンク色のぞうり(サンダル)がなくなっていることに気付いた。

離れに脱いであった衣服は、前日の一二月二八日のE子の服装と異なっており、おそらくその前に着替えたまま放置されていたものと思う。」

第三被告人の自白

以上の事実を前提として、被告人と犯人の同一性の検討に入るが、まず、被告人の自白について、任意性及び信用性が認められるか否かを判断する。

一 自白の任意性

1  弁護人らは、検察官が取調請求をした別紙記載の各供述調書(以下「本件自白調書」という。)に対して、これらはいずれも任意性がないと主張し、その理由とするところは、

①  被告人は、昭和六〇年九月一七日に本件の被疑者として取調を受け、それ以来被告人やその妻に対して張り込み、尾行などの捜査が続き、一方地元では本件の犯人は被告人であるとの噂が流布していたため、被告人は心理的に追い詰められた状態にあった。

②  昭和六三年三月九日から同月一二日にかけて、被告人は、警察署から任意の出頭を求められて本件の被疑者として取り調べられたが、取調官は被告人の弁解を聞き入れず、怒鳴りつけたり、暴行を加えるなどした。

③  右取調の過程で、取調官は、被告人に対し、被告人の娘の嫁ぎ先をガタガタにする、親戚のD'を逮捕する、等と脅迫した。

というにある。

2  暴行、脅迫の有無

(一)  被告人及び弁護人らは、被告人が任意で取調を受けていた昭和六三年三月九日から同月一一日までの間に警察官から暴行や脅迫を受けた旨主張しており、被告人はその状況等につき当公判廷において次のように供述している。

(1) 同月九日の取調では、取調の主任はF'刑事であったが、G'刑事及びJ'刑事も取調室にいた。夕食後、突如F'刑事が被告人の襟首を持ってねじ上げ、J'刑事は後方から左頬を殴り、G'がボールペンのようなものを四ないし五本まとめた束で肩をつつくなどの暴行を加えてきて、「白状せよ。」等と言われた。

更に、午後八時三〇分ないし九時ころにおいて、やはり、F'刑事が襟首をしめ上げ、J'刑事が三回くらい平手で左頬を殴り、G'刑事はボールペンの束様のものでつついてきた。

取調終了時に、F'刑事は、「今日はこれくらいやけど、明日は今日みたいなことぐらいですむと思ってるな。」と言った。

帰宅後、妻に暴行されたことを話したが、そのまま酒を飲んで寝た。

(2) 同月一〇日の取調時においては、午後八時三〇分ないし午後九時ころ、F'刑事が襟首をつかんで絞め上げ、J'刑事が後方から左頬を一回殴り、頭部の以前に交通事故で受傷した部分を相当回数殴った。G'刑事は、ボールペンの束様のものでつついたり、被告人の座っていた椅子を足で払うなどし、そのため被告人は転倒し、頸と肩の辺りを床に打ちつけた。暴行の結果、被告人の口から出血したが、ティシュペーパーで拭くと出血は止まった。

その日も帰宅して、酒を飲んで寝た。

(3) 同月一一日は午前七時ころ起床すると、前日殴られたためか歯が痛かったため、入れ歯をはずして警察署に出頭した。

午後六時三〇分ないし七時ころ、J'刑事から三回くらい頭部を殴られ、その後にJ'刑事は入り口付近に椅子を持っていってそこに腰掛け、「白状しなかったら、娘の嫁ぎ先をガタガタにする。(被告人の従兄弟である)D'に手錠をかけて引っ張ってくる。」と述べながら、これから出かけようとするかのように中腰になり、更に「日野町を火の海にしてやる。人はどこからでもくるのや。」と言った。そこで、被告人は、「私がやりました。」と言った。

(4) 同日帰宅して、家族に自白したことを伝えたところ、娘から自分のことは心配しなくてもよいから、否認してくれと言われ、翌日の朝に親戚の者が来て「やっていないならその通り警察で述べよ。」と言われた。

(5) 同月一二日以降は暴行を受けていないが、犯行を認める供述を続けた。

(6) 警察官に殴られてから痛くなった歯は、水口署で勾留中に歯科医で治療を受け、更に滋賀刑務所に移監してから抜歯してもらった。

(二)  次に、被告人から、警察官の暴行の訴えを聞いた者に関する証拠は次のとおりである。

(1) 被告人の家族、親族

証人D子(被告人の妻)及び同K'子(被告人の長女)の供述中には、被告人の前記供述に符合して、同月一〇日に帰宅した被告人から、取調中に、三人の警察官から、いすを足蹴りされ、倒れたときに肩を打った、髪を掴まれて机に押しつけられたり、ほほを叩かれるなどした等と聞かされたとの部分がある。

更に、右証人K'子は、同月一一日夜に被告人から犯行を自白したことを聞かされた際、被告人は自白した理由として、「警察官に、娘の嫁ぎ先をぐちゃぐちゃにしてやる、D'(被告人の従兄弟)に手錠をかける、と言われたので(犯行を)認めた。」旨を説明したこと、被告人の顔が腫れていたので、被告人の顔を写真に撮影したり、医者の診断書をとろうと兄と相談したが、結局何も行わなかったことを供述している。

なお、証人D'も、同月一一日夜に被告人の妻から電話を受け、その際に、被告人が本件犯行を自白したこと、自白した理由は、警察官から、D'を職場にいられないようにする、娘が嫁ぎ先にいられないようにしてやる等と言われたためであると聞いた旨を供述する。

(2) 弁護人

昭和六三年三月二三日付弁護人作成の上申書(弁三〇)は、被告人が同月一〇日に警察官二名から暴行を受けたことを主任検察官に対して抗議している旨の文面である。これによると、右上申書が作成された当時、被告人は弁護人に対して警察官からの暴行を訴えていたと認められる。

(3) 検察官

証人E'(主任検察官)は、同月一三日、大津地方検察庁において被告人の身柄付送致を受け、弁解録取及び取調を行った際、被告人が警察官から顔面を手拳で何回も殴られ、引き倒されるという暴行を受けたと訴えたので、取調担当の警察官に確認したが、そのような事実はないとのことであり、被告人の顔面等にも何等の痕跡も認めなかった旨供述している。

(三)  以上の各証拠のうち、まず、被告人の公判供述について検討を加える。

(1) 被告人の前記供述のうち、警察官からの暴行に関する部分に限っていえば、ある程度の具体性を含んでいるとはいえるものの、数回の暴行がいずれもほぼ同じ手順や役割分担で進められたという点で、不自然さを感じさせるものがあり、また、取調状況以外に関する被告人の公判供述では、質問に対して「忘れた。」と答える部分や不適切な答をする部分が目立っているのに対し、警察官の暴行の手順や態様は異様な詳細さをもって供述しており、この落差は著しく不自然である。

(2) また、同月一一日の取調時にJ'刑事が述べたという言葉については、「娘の嫁ぎ先をガタガタにする。」「D'を逮捕する。」「日野町を火の海にする。」というようなことはおよそ不可能なことであり、これらの文言を警察官が述べたとは、常識に照らして到底信用することはできない。

(3) 被告人は、同月一一日に否認から自白に転じるに至った理由について、暴行だけなら我慢できたが、J'刑事に「娘の嫁ぎ先をガタガタにする。」「D'を逮捕する。」等と言われて我慢ができなくなった、との趣旨の供述をしているが、同日夜に帰宅した後、家族や親族から「やってないなら、もう一度言い直して来い。」と促され、ことに長女K'子からは、「警察が嫁ぎ先をぐちゃぐちゃにしに来たかて、何も怖いことあらへん。」「D'さんかて、私らが一生懸命がんばっていたら、きっと分かってくれる。」等と被告人の懸念を解消すべく、懸命に励ましているのであって、もし被告人が真犯人でないのならば、翌日からは自白を撤回し、家族の期待に応えようとするのが当然であると思われる。しかし、被告人は、翌日以降も自白を維持し続け、更に勾留期間の途中で家族が弁護人を選任し、接見に来た山本弁護士らに「調書にもう指印を押してはいけない。」と注意されてもなお、自白を続けていることが窺われる。被告人は、このように自白を続けた理由について質問されると、「更に暴行を受けるのがこわかった。」「身体が衰弱して誰に会っても帰って欲しかった。」等と、自白に転じた際とは異なり、身体の苦痛を第一の要因に挙げており、被告人の公判供述は質問に対するその場限りの返答に過ぎないとの印象が拭えない。

(4) 更に、平成二年六月二二日付犯罪捜査復命書(甲一一〇)、住井泰之の警察官調書二通(甲一一一、一一二)及び滋賀刑務所長の捜査関係事項照会に対する回答書(甲一一四)によれば、水口警察署及び滋賀刑務所で実施された歯科治療は、いずれもいわゆる虫歯の治療であることが窺われ、特に水口警察署に留置中に被告人の歯科治療を担当した住井歯科医師は、被告人の歯は突然痛くなったものではないと供述しており、同供述調書の中には被告人から暴行を受けた旨の訴えがあったことなどは記載されていない。これによれば、警察官に殴られたので歯が痛くなったとの、被告人の公判供述は、虚偽を含んでいるというべきである。

(5) 証人F'、同G'及び同J'(第一回)の各供述によれば、取調の担当者はF'刑事とG'刑事であり、J'刑事は裏付けの担当に過ぎず、J'刑事は取調室に少数回出入りはしたものの、常時在室したわけではなかったことが認められ、三名から暴行を受けたとする被告人の供述には疑問がある。

(6) 以上の各諸点は、いずれも被告人の警察官からの暴行、脅迫に関する供述部分が虚偽であることを示している。

(四)  これに対して、弁護人は、捜査官らは役割分担を決めて暴行を行ったのであり、同じ手順、役割で暴行が進められたとしても不自然ではないし、J'刑事の脅迫文言も被告人にとっては十分現実味がある、等と主張する。しかし、要するに、被告人の警察官からの暴行、脅迫に関する供述部分は全体としてみれば荒唐無稽であり、証拠から認められる取調状況は後記のとおりであって、弁護人の主張は採用するに足らない。

(五)  また、被告人は境界線級の精神発達遅滞であり、自我も未熟であることが窺われる(職権一一、証人L')ため、虚偽の訴えをなすことができるかも検討の要があるが、被告人は本件で検挙されるまでの間は、教育を受ける機会は十分ではなかったものの、就職し、結婚し、妻子を養うなど、特段の問題も起こさずに社会生活を営んでいたものであって、このような経験によって得られた生活上の知恵といったたぐいのものは、相当豊かと推測され、社会生活においては、場合により言い訳や弁解を迫られることもあるから、このような中で被告人が作話能力を身につけたとしても不思議ではない。しかも、被告人の前記供述内容は、いかにも真実らしいというところはなく、むしろ明らかに虚偽と判る稚拙な内容であって、この程度の作話をなすのに、さして高い能力は要求されないと思われる。

(六)  次に、被告人から、警察官の暴行、脅迫の訴えを聞いた者の供述に関して検討する。

(1) 昭和六三年三月一〇日及び同月一一日夜に帰宅した被告人が、妻や娘に対し、警察官の暴行や脅迫を訴えていたことは、前記各証言から認められるところである。しかし、被告人の右暴行等に関する供述内容が虚偽と認められることは前記のとおりであり、結局、妻や娘に対する訴えも、自白してしまったことに対する被告人なりの弁解と考えられる。

すなわち、被告人の公判供述によれば、被告人としては、本件の捜査に関して家族や親族に迷惑がかかることを最も苦にしていたふしが窺われること、証人D子、同D'、同M'子らの各供述によれば、三月九日に被告人の任意取調が開始する以前から、被告人の家族や親族は、被告人に本件の容疑がかかっていることを熟知し、その上で被告人の無実を前提として精神的に支援していたこと、三月九日から被告人の取調が開始された際にも、被告人と妻のD子は「とことん調べてもらい、我慢しよう。」と励まし合っていたことなどが認められるのであり、被告人が警察官に対して自白してしまったことにつき、家族や親族に顔向けができないと思ったであろうことは十分予想できるところである。

(2) 被告人が弁護人に対しても、警察官からの暴行、脅迫を訴えていたことは、右弁護人らは被告人の家族が選任したものであることを考えれば、前述同様、自白してしまったことに対する弁解のための作話と考えるべきであろう。

なお、前記上申書(弁三〇)によれば、弁護人は当時の担当検察官に対して被告人が三月一〇日に警察官二名から暴行を受けたと抗議していることが認められ、これによると、問題となっている取調に近接した昭和六三年三月二三日当時には、被告人は暴行を加えた警察官は二名であると弁護人に訴えていたのではないかと推認されるが、これは三名から暴行を受けたとする被告人の当公判廷での供述とは矛盾しており、被告人は語る相手によって、適当に話の内容を変えていたのではないかと疑われる。

(3) 被告人が、E'検事に対しても、警察官からの暴行を訴えていたことも窺われるが、同検事は、警察官に対する問い合わせの結果や被告人の外見からみてこの訴えを虚偽と判断したというのであり、右判断に不合理な点は見当たらない。

(七)  前記のとおり、証人K'子は、同月一一日の夜に被告人の左頬の下が赤く腫れており、更に、翌一二日夜のテレビのニュース番組で被告人の逮捕が報道された際に放映された被告人の顔写真は全体的に腫れぼったかった、と供述する。

しかし、証人E'の証言によれば、前記のとおり、同月一三日の送検時には被告人の顔面には異常は認められなかったとのことであり、右供述は信用できる。これに照らすと、証人K'子の供述内容は疑わしく、左頬の下が腫れていたのは、以前から患っていたと思われる虫歯の影響の可能性もあるし、テレビにおいて放映される写真と実物の印象がかなり異なることは一般にあることであって、いずれも同証人の思い込みの域を出ないものと思われる。

更に同供述では、逮捕直前に被告人の顔を写真撮影する等の案も出ながら、手許にカメラがなく、他に借りに行くのも夜遅いので迷惑をかけるとこれを実行しなかったとの部分もあるが、その実行しなかった理由については到底首肯し得るものではない。

(八)  以上を総合すると、被告人の自白は、取調警察官の暴行、脅迫に基づくとの弁護人の主張は採用できない。

2  自白に至るまでの被告人の心境

被告人及び証人D子は、三月九日から取調が行われるまでも、住居地周辺では本件の犯人は被告人であるとの噂が流布しており、警察官が執拗に被告人や妻を尾行するため、追いつめられた心境になっていたことを供述している。確かに、被告人が被害者の捜索活動や葬儀に参加しなかったことなどから、被告人が本件の犯人であるとの噂が地域に流布していたことは、他の証人(H子等)の供述によっても裏付けられており、警察官が被告人の身辺捜査のために尾行を行ったり、勤務先の調をした時期もあったようである(証人B' 第一回)

もっとも、警察による尾行が被告人が供述するほど執拗であったかは疑問であるが、警察の動きに対して過敏になっていた被告人や家族が、些細なできごとを警察の捜査と結び付けて考え、終始尾行されていると思いこんでいたふしも窺え、被告人の主観としては相当負担に思っていたことは否定できないであろう。

しかし、一方では、被告人の住居地周辺にはその親族が多数おり、これらの親族は、被告人が犯人であるとの噂を心配して、被告人を問いただす者もあったが、被告人がこれを否定すると、その無実を信じ、被告人の相談相手になったり、被告人の主張するアリバイの裏付けをとろうと努力する者もあったことが認められる(被告人の公判供述、証人D子、同D'、同M'子)。その他にも、被告人は、日野町議会議員に、警察から本件の犯人と疑われて困っていることを相談し、無実ならば堂々としていればよい、アリバイ証人に被告人が無実であることを証言してもらったらよい、などと助言を受けていたことが窺われる。

更に、被告人の家族は、心から被告人の無実を信じ、昭和六三年三月九日から被告人の取調が始まっても、被告人を暖かく励まし、被告人もこのような家族を大事に考えていたことが認められる。

通常、心理的に追いつめられて虚偽の自白に至るのは、孤立等から自暴自棄となることが原因と思われるのであるが、被告人の場合は、家族や親族が被告人の無実を信じて精神的に支援していたのであるから、地域の噂や警察の捜査に対して反抗の気力まで喪失するほどうちのめされるとは考え難い。

したがって、この点に関する弁護人の主張は採用できない。

3  取調の状況

(一)  以上によれば、取調中に警察官が被告人に対して暴行、脅迫を加えたり、被告人が噂や警察の尾行等により追いつめられていたことは認め難いのであるが、ここで、被告人の取調状況全般がどのようなものであったかについて検討を加える。

(二)  関係各証拠を総合すると次の各事実が認められる。

(1) 昭和六一年三月に本件の捜査主任官になったB'警部は、引継を受けた証拠内容を精査し、被告人のみならずその他の者に対する容疑をも含めて、本件の捜査をやり直す必要を感じ、同人の指揮の下で、被告人の生活実態等に関する捜査、被害者の着衣に付着した微物の鑑識活動、新たな目撃者探しなどの捜査が行われた。

これらの捜査の結果、B'警部らは一層被告人への容疑を強める心証を持つに至った(証人B' 第一回)。

(2) 昭和六三年三月上旬、B'警部ら警察側は、当時の大津地方検察庁三席検事であったE'検事に対し、本件の捜査記録を持参して、証拠の内容を説明し、「被告人を逮捕し、被告人方等を捜索したい。」との相談を持ちかけた。同検事は、記録を精査し、かつ、本件に関係すると思われるE子方、死体発見現場、金庫発見現場を事実上訪れるなどして検討した結果、今後の捜査としては被告人を取り調べ、被告人方等を捜索するしかないであろうと判断した。

その上で、同検事は、警察側に対し、① 取調は被告人在宅のまま実施する、② 自白が得られても、詳細な内容でなければ、逮捕は見合わせるべきである、③ 逮捕状を請求する際は、同検事まで連絡する、④ 取調に当たっては、暴行や脅迫はもちろんのこと、誘導にわたる質問も避け、重要事項については、他の証拠の内容を教示しないようにする、⑤ 取調に対して、被告人がどのように供述するかは、同検事まで逐一報告する、等と捜査の方法について指揮した(証人E')。

(3) 同月九日から、被告人を日野警察署へ任意同行して取り調べることになったが、その際の取調の主任官は滋賀県警捜査一課所属のF'警部補が、その補助官には同課所属のG'巡査部長が選ばれた。

同日は、午前八時ころから午後一〇時ころまで取調が行われ、被告人の昼食及び夕食は取調室において摂らせた。

F'刑事らは、取調に先立って、E子に対する強盗殺人事件の被疑者として取り調べることや、被告人には黙秘権があることを告知した。被告人は、事件との関わりについては、犯行のあった夜はM子方に宿泊していたとアリバイを主張したので、F'刑事らは、関係者に裏付け捜査をしたが、そのような事実はなかったと追及すると、被告人は、それはM子らが嘘をついていて、自分の主張が正しいと強硬に主張し、ときに興奮の余り立ち上がる、机を叩く、大きい声を出すなどの行動に出た。F'刑事らは、E子方に被告人の指紋が残されていたこと、被告人に付いていたと思われるごみのような物が同女の着衣に付着していたこと、被害者失踪前夜に被告人を見かけた目撃者があること等を告げたが、被告人はこれらに特に反論することはなく、ただ前記のアリバイを主張し続けるだけであった。

F'刑事らは、当日は供述調書を作成せず、翌日以降も任意同行の上、取調を行うことを告げて、被告人を帰宅させた(証人F')。

(4) 翌一〇日も、前日と同様に、被告人を日野警察署に任意同行し、午前八時ころから午後一〇時ころまで取調が行われた。

被告人はもはや取調中に興奮するようなことはなかったが、あいかわらずM子方で宿泊したとのアリバイを強く主張した。F'刑事らは、被告人の良心に訴えかける方法により説得を試みたが、被告人の主張は変わらなかったので、被告人の主張するアリバイや、被害者との関係等についての供述調書(乙四)を作成した。

(5) 翌一一日も、午前八時ころ被告人を任意同行して取調を始めた。

F'刑事らは、被告人の主張するアリバイが関係者の供述と全く矛盾していることを挙げ、その上で、「本当にやっていないならば、言わなくてもよい。しかし、事実に関係があるならば、良心に立ち戻って話をしなさい。」などとの説得を粘り強く繰り返した。被告人は、同日になると、前日までのアリバイを強硬に主張するということはなくなり、F'刑事らの説得に対しては、黙り込んでしまうことが多くなっていた。

午後二時ころ、被告人は、涙を流して手を合わせながら、「私がE子さんをやりました。」と述べた。F'刑事らは、どのようにして同女を殺害したのか、と尋ねると、被告人は、首を絞めた、とまでは言ったものの、その後は沈黙するばかりであったので、F'刑事らは、真摯になされた自白か否かを見極めようと、「良心に従って、ほんまに自分がやったんなら、言うたらいいし、そうでないなら、無理して言わんでもいい。真実の話をする気になったときに言いなさい。」と告げた。被告人は、しばらく後に、「ちょっと言えません。やってません。」と再度犯行を否認した。

その後も、F'刑事らが、気持ちを整理するように説得を重ねると、午後六時三〇分過ぎになり、被告人は、「今まで嘘をついていましたが、本当のことを言います。私がE子さんをやりました。さっき言ったことは本当です。」等と切り出して、今までは家族のことを考えると真実のことが言えなかったが、E子のことを考えるとやはり本当のことを言わねばならない、という気持ちになった、などと自白するに至った理由を述べるとともに、犯行の動機、殺害の方法、死体の遺棄までの状況、再度同女方で物色して金庫を奪った状況、金庫を破壊して中の現金を奪った状況など犯行の概略を供述した。

F'刑事は、被告人の右自白を供述調書(乙五)にまとめ、ただちにB'警部に被告人が自白した旨の報告を行った。なお、右報告は、E'検事にも届けられた(証人F'、同G'、同B'、第一回、同E')。

(6) B'警部は、供述の信憑性を慎重に検討するため、同日は被告人を一旦帰宅させ、翌日以降の供述状況も加えて判断することを決定し、同日午後一一時ころ、被告人は自宅に帰った。

(7) 翌一二日午前八時ころ、被告人は日野警察署への任意同行に応じ、前日同様にF'刑事らの取調を受けた。

被告人は、まず合掌して泣き、「夕べは帰らせてもらい、ありがとうございました。夕べは好きな酒を三合飲んできました。家族の顔も心残りがないように見てきました。今日からは犯罪者として扱われる以上は乙野の御霊を外してきました。」などと前置きして、前日とほぼ同様であるが、更に詳しく犯行の状況を供述した。

F'刑事から被告人の供述状況の報告を受けたB'警部は、上司やE'検事とも相談の上、逮捕状請求に踏み切り、同日中に裁判官から逮捕状の発付を得て、午後被告人を逮捕した(証人F'、同B' 第一回)。

(8) 同月一三日、被告人は身柄付きで大津地方検察庁に送致された。

E'検事は、被告人の弁解を録取するとともに、警察官らが自己の指揮した内容を守っているかを確認する等のために取調を試み、供述調書(乙七)を作成した。

右調書中には、犯行の概要についての記載とともに、「昭和六〇年九月の取調時には否認していたが、今回は証拠もあると警察官に言われ、隠し通せないと思い自白した。しかし、警察官は、自分に対して、どんな証拠がそろっているのか詳しく教えてくれない。」等と記載がある(証人E'、乙七)。

(三)  以上の各事実によれば、昭和六三年三月九日から被告人の取調が開始する以前に、本件の主任検察官となるべきE'検事においては、たとえ自白が得られたとしてもその自白の任意性が問題となることを十分に予想し、警察官に対して積極的に捜査の手法について指揮し、自己の指示内容が守られているかは検事自身の取調によって検証していたこと、F'刑事らはこの注意をよく守り、証拠があることは告げながら、その詳細な内容を教示せず、主として良心に訴えたり、被告人の弁解が不合理であることを指摘するなどして説得を続け、被告人が同月一一日午後二時ころに一旦自白しそうになった際も、無理して言わなくてよい、などと一歩退いた姿勢で取調に当たっていたこと、B'警部も、同日に被告人が一応自白した際も逮捕を急ぐことなく、被告人を帰宅させて翌日以降の供述と併せて自白の信憑性を判断しようとしたこと、などが認められるのであり、これらはいずれも本件の捜査が自白の任意性確保に向けて、慎重に配慮されていることを窺わせるものである。

(四)  弁護人は、警察官が自白の任意性の確保が重要であることを認識していたとしても、被疑者に暴行を加えることは現実にあり得ると言い、本件は事件発生から三年を経過して迷宮入り寸前のところを、捜査機関は起死回生を賭けて被告人を任意同行の上取調を行ったのであって、暴行脅迫を加えて被告人を取り調べたことを警察官である証人F'G'J'らは隠ぺいしていると主張する。

(1) ここで、弁護人らの言うとおり、過去に捜査官が被疑者に暴行を加えたことが現実にあったことは事実であるが、弁護人の仮説は、捜査機関は犯罪の被疑者を検挙し、有罪に持ち込むためには何でもするという前提に立っているのであって、この前提は本件においては当てはまらないと思われる。

すなわち、捜査機関、ことに検察官には、被疑者の有罪を立証するだけではなく、無実の被疑者を発見し、その事件について不起訴の処分をなすことも重大な責務として課せられているのであり、E'検事の捜査姿勢をみると、当初から身柄を拘束するのではなく、任意の取調によって詳細な自白が得られた場合だけ逮捕状を請求するよう指示していること、送検の際に早くもかなり長い検察官自身による取調を行い、警察官が不当な誘導等を行っていないかを検証しようとしたこと、後記のとおり引き当て捜査や犯行再現の実況見分にも同行し、自分なりの心証を取ろうと努力していること等が窺われ、同検事は、決して自白に飛びつくことはなく、慎重に被告人が犯人かを見極めようとしていたものと考えられる。

(2) B'警部以下本件を担当した警察官らにおいても、任意同行の以前に検察官の指示を仰ぎ、取調に際しては担当者を二名とし(これは一方が被疑者と取り引きしたり、被疑者に暴行脅迫等を加えることがないよう相互に監視する意味も含まれていると考えられる。)、被告人が一旦自白しても、翌日も供述を維持するかをみてから逮捕状請求に踏み切るなど、E'検事の意図を汲んで捜査に当たっていることが認められ、弁護人のいうように、警察官らがE'検事の目を盗んで、暴行、脅迫を加え、不当な誘導や供述の押しつけをしていたとみるのは、いささかうがちすぎであろう。

(3) 勾留理由開示調書(弁二二)及び弁護人作成の勾留場所変更の上申書(弁三三)添付の「勾留理由開示手続きにおける被疑者Aさんの供述内容メモ」によれば、勾留理由開示法廷において、被告人は、警察官には親切に言うことを聞いてもらっている、と感謝の意を表明していたことが認められるのであり、この事実は前記のような任意性に配慮した取調状況を裏付けるものと思われる。

(五)  もっとも、重大事件について自白する被疑者の心境は複雑なものがあるのであって、前記のように被告人が自白に転じるに際して、泣いたり、合掌したり、自白の理由を述べたりしたというような状況から被告人の当時の心境を軽々に推し量るようなことはなすべきではない。

しかしながら、本件では、前記のような取調状況からみて、被告人の任意取調が四日間連続して行われ、しかもいずれの日もかなり長時間行われたことを考慮してもなお、自白の任意性確保に向けてこれを上回る配慮がなされていたというべきである。

以上によれば、少なくとも被告人の自白の任意性については、何等の問題はないと認められる。

二 被告人の自白の信用性

1  被告人の供述の変遷

(一)  被告人が自白に至った後から起訴に至るまでの本件犯行の状況に関する供述の内容は、

(1) 昭和五九年一二月二八日夜、壺入り客としてE子方店舗に赴き、店舗部分の六畳の間で、こたつに座って手提金庫を横に置いて帳面付けをしていた同女を背後から扼頸して殺害した。

(2) 死体をこのままにしていては、誰かに見つかるおそれがあると思い、被告人の軽トラックをバックで店舗の入り口までつけ、死体を荷台に乗せて、小井口の空き地まで行き、同所に捨てた(その経路は別紙図面八のとおり)。

(3) 店舗に戻って、手提金庫を開けようとしたが開かず、タンス等の中も物色したが現金は見つからなかった。しばらく考えた後、手提金庫を持ち出して外で開けることにし、店舗を出て、軽トラックで石原山に向かった。

(4) 石原山に着いてから、手提金庫をこじあけ、中の紙幣を取って、金庫はその場に放置した。帰る途中で金額を数えると、計五万円程度であった。

との諸点では概ね一致している。しかし、犯行の動機、犯行に至るまでの行動、犯行状況の細部においては供述に変遷があるので、変遷のある部分及びその経過について検討する。

(二)  供述に変遷がある部分の検討

(1) 犯意が生じた時期及び犯行の動機について

昭和六三年三月一一日(被告人が自白した初日)付警察官調書、同月一三日(送検、勾留請求及び同決定の日)付警察官調書、同日付検察官調書(乙五ないし七)では、「E子方店舗には、酒を飲むために出かけたところ、同店で手提げ金庫を見るうちに、年末だから多額の売上金があるだろうと思い、金が欲しくなってとっさに同女を殺して金庫を奪おうと考えた。」と犯意が偶発的に生じたようになっている。

しかし、同月一七日付警察官調書(乙一九)では、動機等について、小遣いとしてタバコ銭しかもらっておらず、酒はつけで飲んでいたが、日頃から、「店でつけをせず、家族や妻などに遠慮することなく、自分の持ち金で酒を飲みたい」と思っており、事件の一〇日位前から、E子を殺害して売上金を奪おうと思うようになったと、計画性があったことを供述している。

同月二一日付検察官調書(乙九)では、犯意形成の過程について、犯行の一〇日位前から、誰かの家から金を盗もうと考え、E子方なら様子をよく知っているので、ここから金を盗もうかと考えるようになったが、同女に気付かれずに金を盗む方法が思い付かず、事件の二、三日前から、いっそのこと同女を殺して金を奪おうと考えるようになった、とも説明している。

(2) 犯行に至るまでの行動

昭和六三年三月二四日までに作成された被告人の供述調書では、犯行当日の犯行前の行動については、特に見るべき供述はない。

ところが、同月二五日付警察官調書(乙一二)では、「当日は朝に帰宅し、酒を飲んで昼まで寝ていた。その後、アルバイト探しのためブロイラー農場『乙原』を訪ねるが、親方がおらず話を聞けなかった。午後一時ないし二時ころに叔母の夫のL方へ行き、しばらくそこで過ごす。午後七時四〇分ころ、L方を軽トラックで出発してE子方店舗に向かった。」となっている。

そして、同月二八日付検察官調書(乙一三)では、「当日は夜勤明けで帰宅した後、午前中にL方へ遊びに行き、そこから『乙原』へアルバイトを探しに行ったものの、親方に会えず、またL方に戻った。午後五時半ないし六時ころ、丙田屋(酒店)で酒を買い、帰り道にM子方へ寄ってみたが、同女の夫のNやOらが親方らしき人と酒を飲んでいる様子であったので、窓ごしに覗いただけで引き上げ、L方に戻って酒を飲んだ。その後、午後七時四五分ないし五〇分ころ、E子方へ行った。」とし、更に同月三〇日付警察官調書(乙一五)の内容はほぼ同様であるが、これに付加して、「昼過ぎに文化会館近くでM子に会い、翌日にE"方へ『お浄め』に行く約束をした。」としている。

(3) 頸を絞めた紐と手首を結束した紐について

昭和六三年三月一一日付警察官調書(乙五)では、被告人がE子の頸を両手で絞めたことが述べられているのみで、その後頸部を紐で絞めたこと及び手首を結束したことなどは述べていないが、同月一二日付警察官調書(乙一八)では、死体を運び出すとき、両手首をビニールの紐で縛ったことを思い出したと述べられており、更に同月一三日以降に作成された供述調書には、いずれもとどめを刺すために頸部を紐で絞めたこと及び死体を運ぶ前に両手首を紐で結束したことが記載されている。このうち、同月一三日付検察官調書(乙七)では、頸部を絞めた紐と手首を結束した紐が同一であるかはわからない、となっているが、それ以外の供述調書では、これらの紐は同一であるとされている。同日付警察官調書(乙六)では「ビニール紐を首からはずし」て手首を結束するのに使用したとなっていたのが、同月一八日付警察官調書(乙八)では、頸に巻いた紐の結び目から少し離れたところを引っ張ってみると紐が少し緩んだので、ライターの炎で紐を焼き切った、と頸から外した方法がより詳しく説明されている。

この紐をどこから調達したかについては、同月一三日付警察官調書(乙六)では「カウンターの方に行って近くに有った」と、同日付検察官調書(乙七)では「土間のカウンターかこの近くにあった白いナイロン製の紐をカッターナイフで適当な長さに切って」とされていたのが、同月一八日以降に作成された供述調書では、いずれも、カウンターの下にあった使い差しの紐を利用したと供述が変更されている。

なお、このように紐についての供述が変遷していることについて、同月二一日付検察官調書(乙九)では、警察での取調を通じて、手首の結束方法などを思い出すうちに、頸を絞めた紐と手首を結束した紐が同一であり、それが使い差しの紐であったことなどを思い出した旨が述べられている。

紐で頸部を絞めたときの方法は、同月一三日付警察官調書では「一重か二重巻位」と、同日付検察官調書では「二重か三重くらいに巻きつけ」となっていたのが、同月一八日付警察官調書(乙八)では、紐を一重に巻いて絞めたところ、力が入らないことに気付き、二重位に巻き付けて再度絞めた、となっており、更に同月三〇日付警察官調書(乙一五)では、調書作成の前日の再現見分の結果、三重に巻き、その後縦結びをして絞めた、としている。

(4) 当初に軽トラックを駐車した位置

E子方の店舗に行く際、被告人が自己の軽トラックを駐車した位置については、昭和六三年三月一三日付警察官調書及び同日付検察官調書(乙六、七)では、「戊原」(T方)の横であるとしていたのが、同月二一日付検察官調書(乙九)では、その斜め向かいである丁野自動車とN'方の間の丁野自動車寄りの路上とこれを変更しており、このように変更する理由については、警察官から、(軽トラック駐車の位置につき)本当にそうだったかよく考えるように言われ、死体を運ぶために軽トラックをバックで移動させた際の移動のさせ方を考えるうち、丁野自動車の横に停めたことを思い出したこと、「戊原」の横はいつも自分が車を停める所であるが、この日は他の車が先に停っていたことなどが述べられている。

(5) 被害者が倒れたときの顔の位置

昭和六三年三月一三日付警察官調書(乙六)等では、被告人がE子の頸部を絞めた際、同女は店舗畳間のこたつの南側に北向きに座っており、頸を絞められた後、右横に倒れたことが記載されており、この内容は同日以降作成された供述調書においても変更はない。

ただし、同月三〇日付警察官調書(乙一五)に至ると、同女が倒れたとき、その顔が手提金庫の上付近に当たったと思う旨の供述が出現しており、その理由は、「昨日(供述調書作成の前日)現場で刑事さんを相手に再現してみますと、手提金庫の上あたりに刑事さんの顔がいっていましたですから」と説明されている。

(6) 死体を荷台に乗せる方法

E子の死体を遺棄するため、軽トラックの荷台に乗せたときの状況については、昭和六三年三月一八日付警察官調書(乙八)では、死体の頭を運転席側、足を後部座席側に乗せたことが記載されているが、同月二二日付警察官調書(乙一〇)では、より詳しく、「私が、車の左側から荷台に、E子さんの頭を運転席側にして足を後方に伸ばし、体全体がくの字になるようにして顔を右の方に向けた状態で載せたと思います。」となっており、同月二八日付検察官調書(乙一三)にも、荷台がE子さんの体よりも狭かったように思い、死体の脚をかがめて乗せたと記憶している旨の記載がある。

ところが、同月三〇日付警察官調書(乙一五)に至ると、軽トラックをE子方西側出入口にぴったりとつけてしまったので、車の左側からは乗せることができず、右腕に死体の頭部を、左腕に足を抱えて、車の荷台の右側から死体を乗せた、荷台の長さは二メートル位あり、死体を十分乗せることができた、と供述が変更されており、その理由としては、供述調書作成の前日に死体を乗せた状況の再現をしたことを挙げている。

(7) 金庫を被害者方から持ち出した時刻

同月二二日付け警察官調書(乙一〇)では、自分の腕時計で午前五時頃になったのを確認し、未だ人通りもなく、人に見つかることもないと思い被害者方を出発したことになっているが、同月三〇日付け警察官調書(乙一五)では、「山の中で金庫を壊している時、夜が明けかけたのか真っ暗ではなく、少し明るくなっていたような感じがありますので、良く考えてみますと、被害者方を出た時刻は、午前六時少し前頃になると思います。ですから、先般の調書で、『午前五時過ぎ位』に被害者方を出たというのは間違い」である旨が述べられている。

(三)  供述の変遷に対する考察

(1) このように、被告人の自白には、変遷する点が多く認められ、特に犯行の動機や犯意を生じた時期のように重要と思われる部分にも変遷が存在している。

しかし、凶悪事件の犯人が自白を開始する際、真実は計画的な犯行であっても、当初は少しでも情状を軽くするためいかにも偶発的な犯行のように供述し、その後取り調べの進行にしたがって、真実の動機や犯意の発生時期を明らかにすることはままあることであり、このような観点からみると、被告人の自白において、犯意の発生時期が犯行直前から次第に遡っていったことはあながち不自然とも思えない。

(2) 弁護人は、当日の行動に関する内容が、L、O、M子らの供述に副うように次第に修正されて行っている点や、昭和六三年三月二七日付けのO"の警察官調書(不同意書証)により、「午前五時ころの明るさでは、薄明かりの始まりで、専門家でなければこれを感じることはできない」旨の供述を得、また、同月二九日には、犯行再現の実況見分を実施したので、その後に作成された同月三〇日付警察官調書(乙一五)では、金庫を被害者宅から持ち出した時刻や、被害者が倒れた際の顔の位置や、死体を軽トラックの荷台に乗せるときの乗せ方等の点が訂正されている点をもって、被告人の自白の変遷は、捜査官側が、被告人の行動に関する他の証拠を得た後に行われており、捜査官側の認識の変化に対応しているのであって、これは被告人の供述自体が捜査官側の暗示、誘導を受けてなされたことを推測させるという。

(3) 確かに、前記三月三〇日付警察官調書(乙一五)において、供述が訂正されている部分の記載内容は、金庫を被害者宅から持ち出した時刻については、今良く考えてみますと、金庫破壊時には「少し明るくなっていたような感じがある。」ことを理由に、右出発時刻を一時間後の午前六時と訂正しているほかは、要するに「犯行を現場で再現してみたところ、こうなったから、犯行当日も同様であったと思う。」という内容ばかりであって、犯行再現により被告人の記憶が喚起されたというものではない。したがって、これらの供述部分の体験性は乏しいと言わざるを得ない。

(4) また、被告人の自白には、自白によって新事実が明らかになり、それが後に客観的に証明されたといういわゆる秘密の暴露と称される部分は何一つなく、その意味で被告人の自白内容は、捜査官が事前に有していた情報を超えるものではなく、この点は自白の吟味に当たって一つの考慮材料になり得る。

(5) しかしながら、犯人にとって強盗殺人の行為が人生最大の重大事であるとしても、犯行状況を逐一記憶することは不可能なのであって、特に事件から三年以上も経過してしまえば、印象に残った場面についてははっきり記憶しているであろうが、自己の行為を連続して説明できるほどの記憶を保持し続けることはおよそ無理であり、はっきり記憶している筈の部分についても思い違いが生ずることはまま見られるところである。

そして、前記のとおり、供述の変遷がある部分は、犯行の動機や犯意を生じた時期以外の部分は、犯行と直接関係のない当日の行動、あるいは、頸部を絞めたり手首を結束した紐に関する事柄、死体を軽トラックの荷台に乗せたときの方法等であり、いずれも仮に犯行直後であれば、犯人なら間違えるはずもないといえるとしても、三年の経過後の供述であれば、少しずつ正確なことを思い出したり、最終的に再現見分をしてみて思い違いが明らかになったとしても、ことさら不自然とは言い難い事項である。

したがって、前記のとおり、供述部分の一部に体験性がないことや、犯行状況の再現によってそれまでの供述内容に間違いがあったことが判明した部分があるからといって、自白全部が捜査官の暗示や誘導によるということにはならないと思われる。

(6) 以上のとおり、本件自白が犯行から相当日数が経過した後のものであることに徴すれば、供述の変還のみによって、被告人の自白の信用性を判断することはできないのであり、むしろ、被告人が最終的に思い出したところの内容自体に合理性があるか、他の証拠によって認められる状況と自白の内容が合致するかが重要な判断の岐路になるというべきである。

2  自白内容の合理性が疑われる諸点について

(一)  犯行の動機

(1) 被告人の三月一七日付警察官調書(乙一九)、同月二一日付検察官調書(乙九)、同月二二日付警察官調書(乙一〇)、同月二四日付警察官調書(乙一一)には、被告人が本件犯行に及んだ動機についての記載があるが、これらを総合すると、次のようになる。

「自分は、いわゆる婿養子として結婚し、妻の両親と同居するようになり、生活自体は楽であったものの、結婚後、酒や競馬を覚え、これらに給料を全部つぎ込むなどしたことがあったため、妻から叱られ、それ以後は妻に給料全部を渡すようになり、また、妻には頭が上がらなくなった。本件当時も、給料は銀行振込で、妻がこれを管理していた。飲酒量は次第に増え、本件前は一日に日本酒三ないし五合を飲んでいた。妻は、若干の酒は買い置きしてくれるのだが、自分が多量に飲酒することを嫌い、余り多くは買ってくれず、小遣いもタバコ銭として四、五百円程度しかくれないので、やむなく被害者方店舗で壺入客としてつけで飲んでいたが、飲酒量が多いので、一ないし三か月程度でつけを請求され、妻に払ってもらっていた。妻は、自分が外で飲酒することについて、日頃から小言を言い、自分は肩身の狭い思いをしていたが、飲酒は止められず、自分の持っている金で妻や家族に遠慮せずに酒が飲みたいという思いが募るようになってきた。当初は誰かの家から金を盗もうと思ったが、日頃付き合いのない他者の家のどの部分に金があるかわからなかった。E子方であれば、様子を知っているので、ここから金を盗もうと思ったが、同女に気付かれず、金を盗む方法が思い付かず、いっそ同女を殺して金を奪おうと考えた。」

(2) このうち、婿養子であり妻に頭の上がらない被告人が、自由に酒を飲むために自分だけの金を持ちたいと切望するようになったこと自体については、巷間に有り勝ちなことであり、一般人にも十分に了解は可能である。しかし、これを強盗殺人という重大な犯罪の動機としてみた場合、やや薄弱ではないかとの印象は拭い難い。

(3) 確かに、他者の痛みを理解できない性格異常者や規範意識の鈍磨した犯罪累行者においては、わずかな金銭のため、あるいはささいな鬱憤のために重大犯罪に及ぶ例があるものの、被告人はこれまで交通事犯による罰金前科が一犯あるのみで、これまでさしたる過ちもなく生活していたものであることが窺われるのに、いかに酒好きであるとはいえ、単なる酒代欲しさのために強盗殺人まで企図するというのは、一般の常識に照らせば論理に飛躍がある。

特に、被告人には、高級な店で飲みたいという希望はなく、「酒さえ飲めればそれでよかった。」(乙一〇)というのであるから、さして多額の金員を必要としたとは思われず、そうであれば、副業を始める、あるいは自販機荒らし、ひったくり等のより単純な犯罪を企図するのが通常であり、そのような才覚はないと自覚しているなら、諦めて現状を我慢するのが一般の対応であろう。

(4) しかも、被告人には、E子方店舗以外に、つけで飲酒のできる店はなく(被告人の公判供述 第六六回公判)、同女を殺害すれば、強取金のあるうちはともかく、なくなってからは、たちまち妻の買い置きする酒以外に飲酒することが困難になると思われるのに、自白調書中では、そのことについて被告人が慮った形跡がない。

(5) もっとも、被告人が日頃から小遣いに不自由していたことは真実であろうし、本件当時は、次女が近く結婚する予定であり、その資金の手当てはできていたとはいえ、被告人方の経済状態は逼迫しており、被告人の小遣いにもしわ寄せがあったことも想像に難くない。

そして、精神鑑定書(職権一一)では、被告人は、境界線級の精神発達遅滞であり、「自分の言動に対する見通しや責任感や内省を持つことはほとんどなく、その場しのぎの即時的行動を取ることが多い、という可能性が示唆される」とされているのであり、軽々に常人の感覚に従って、犯行動機は信用できない、と決めつけることも相当ではない。

(6) 以上によれば、本件自白調書中の本件犯行の動機に関する部分は、全く不合理で荒唐無稽とまではいえないが、やはり、重大犯罪の動機としては、了解し難い点があるといえるであろう。

(二)  遺体を搬送した経路

(1) 自白調書中の遺体を搬送した経路は、別紙図面八に記載されたとおりであるが、これによれば、右経路は現場付近では最も主要な道路と思われる県道泉日野線、県道近江八幡土山線を通って近江鉄道日野駅前に出て、そこから近江バス大窪車庫までは日野町の中心部ともいうべき商店街を経由しており、その間日野警察署の前も通ったというもので、しかも、本件自白調書では、荷台の遺体には何の覆いもしなかった(乙一〇、一三等)とされていて、これらは、一見して不自然との印象を抱かせる。

自白では死体を搬出し始めた時間は午後九時ころとされており、同町のような郡部周辺では繁華街でも深夜まで営業する商店は稀であるとはいえ、死体をこれから隠そうとするのに、この経路を選択することは、道中で犯罪が発覚する危険は高くなる。

(2) 証人B'(第一回)、同F'の各証言によれば、取調にあたった警察官や捜査の主任官においても、この点については被告人の自白内容は虚偽ではないかとの懸念を抱いていたことが窺われる。

(3) 自白では、この経路を選んだ理由等については、「夢中で運転しており、ふと気がつくと日野車庫前まで来ていた。死体を捨てる際になって、死体に何もかぶせていなかったことに気付いた。」(乙一三)と、狼狽に基づくものであることが示唆されているところ、このような説明は全く不合理ということはできないが、さりとて読む者を十分納得させるとも言い難い。

結局、死体搬送経路等をめぐる疑問点は、自白の信用性を判断する上で、かなり消極的に働くことは否定できない。

(三)  物色時の状況

(1) 自白では、死体遺棄後、E子方店舗に戻り、同所で飲酒したり、物色したりした挙げ句、明け方直前に手提金庫を持って同所を出たことになっているのは前記のとおりである。

(2) しかし、同女方には、いかに高齢とはいえ、同居者のI子がいるのであり、I子が起き出さないうちに、手早く物色をすませようと考えるのが通常と思われ、店舗に戻ってから行動は、悠長に過ぎるとの印象を与える。

(3) また、物色の場所についても、相当長時間右店舗にいたにしては、店舗畳間のたんすの引き出し及び机の引き出しを開けて物色したに留まり、当然現金が入っていると思われるレジスターについては、小銭しか入っていないことを知っていたとの理由で物色しておらず、不徹底であり、数日間考えた末に金欲しさから殺人まで犯した犯人が、かくも物色について不熱心なのは不自然である。右畳間にあり、当然目につくと思われる小型ロッカーについては、本件自白調書中ではその存在すら言及されていない。

以上によれば、物色の状況に関する被告人の自白の内容も合理性に乏しい。

(四)  絞頸に使用した紐で手首を結束したことについて

(1) 既述のとおり、死体の手首を結束した紐が頸を絞めた紐と同一かについては、若干の供述の変遷があるものの、昭和六三年三月一七日以降作成の供述調書では、被告人はカウンターの下にあった使い古しの紐で頸を絞め、その後頸に巻いていた紐をライターで焼き切って手首を結んだとされている。

(2) 手首を結束していた紐は、何かをしばっていた紐を焼き切って再利用したものであることは、紐の性状から容易に想像がつくのであり、このことと被告人の供述は矛盾していない。

(3) 被告人は、他の紐が店舗内にあったにもかかわらず、頸部の紐をライターで焼き切って使った理由については、「当時の私には早く死体を棄てなければいけないというあせりがあったので別のひもを探す余裕はありませんでした。」(乙九)、「この時気がせいていたし、近くを探せば何か切るものが有ったかもしれませんが、ビニール紐は火に弱い事を知っていたので、ライターの炎で焼き切りました。」(乙一〇)と、もっぱら当時気持ちが焦っていたことで説明している。

(4) このような説明は、一応の理由付けにはなっており、また、被告人の知的能力の低さに照らすと、あながち不自然とはいえない。

しかし、一方では他に紐がなかった等他の理由があったのではないかと、疑いを差し挟む余地がないわけではない。

(五)  金庫発見現場までの経路

(1) 被告人の自白による手提金庫発見現場への経路は、当初捜査機関が予想していたのとは全く異なるものであり、その点では被告人の供述が取調警察官の誘導によるものではなかったことの証左であるといえる。

(2) この金庫発見現場に至る経路を辿ると、①県道石原八日市線から前ケ谷溜の堤防の上までの幅員約〇・六メートル、延長四五・五メートルの田圃のあぜ道を通り、右畦道から右堤防土手の急斜面の地道を東に一二・六メートル上り、②そこから右堤防上のバラス道を約七メートル経て、前ケ谷溜西南角の山林進入口に至り、山林内の幅員約一メートルの山道を約八三メートル進む間、点在する窪地や道に張り出している木の枝を掻き分け、かなりの急勾配を登り詰めると、甲賀桜谷線二一号鉄塔に出ることになり、③右関西電力鉄塔からは、くぬぎ、松等の混在林が両側にある、幅員約五・二メートルのなだらかな砂利道を約六〇メートル東に進むと、右道路から北に下る踏み跡がある下降口地点に到着し、④右下降口地点から踏み跡(甲二〇添付見取図2によれば、右踏み跡は下降地点から僅かしか図示されていない。)に従い斜面を斜直線距離で約一三・六メートル下ると、くぬぎ、松等の混在する林の中の平地(右工事用砂利道との標高差約四・三メートル、南北に目測約一七メートル、東西に目測約九メートル)に出るが、⑤金庫発見地点は、平地に下りた辺りの一番目立った太い松の根元である。(甲二〇、二四、平成二年一月二四日実施検証調書、証人Q)

(3) 被告人の自白では、金庫破壊のためE子方を出発した時刻は、午前六時少し前頃になり、金庫を壊したのは、それから一〇分か二〇分後位になると思います、となっている(乙一五)。

(4) 弁護人は、被告人が、夜間、灯もなく、雪駄を履いて(乙一〇、一二等)、周囲を視認できない山道を金庫破壊場所に辿り着くには多大の困難を伴ったであろうし、また、暗闇の中で金庫をホイルレンチで破壊、開扉することは極めて困難であると考えられるが、金庫運搬・破壊に関する被告人の自白は、右のような困難を伴うのに、具体性も、臨場感も全く欠如しており、更に、右地点で金庫を破壊したという部分は、同所からは、金庫のダイヤル等が未発見であるとの客観的証拠にも反していると主張する。

(5) しかしながら、平成二年一月二四日、前記(2)に至る経路について実施された検証調書によれば、同日午前五時一〇分から同時三〇分まででは、前記(2)①の畦道から斜面を登るまでの足元の道は判別できるものの、②、④の経路は暗くて何も分からず、⑤付近では、空を通して木立の形は判別出来るが、その他は分からないとされているけれども、同日午前六時一〇分から同時三〇分まででは、前記(2)②の山林の中は足元の枯れ葉の形も見え、③の道の形もはっきり見え(東の空が白み始めている。)、④の下降口の木立の切れ目も分かり、二、三メートル先の足元が見え、⑤付近では、地面の起伏も分かり、目から一四、五センチメートルの位置に紙幣を近づけるとその識別もできるとされているところ、「昭和五九年一二月の滋賀県気象暦」(犯罪捜査復命書甲一八八)によると、金庫を運搬・破壊したとされている昭和五九年一二月二九日の日の出時刻は、七時三分であり、右検証実施日は、それよりは約一か月遅いが、同気象暦により日の出時刻が日々遅くなって行く度合いが緩慢になっていることから、右検証実施日の日の出時刻も犯行の翌日の日の出時刻と殆ど差がないと推測できるので、犯行の翌日の早朝の明るさは、右検証実施日と同じと考えることができる。

(6) したがって、同地点において、金庫を破壊したかどうかについては、後記のように疑問があるとしても、少なくとも被告人の自白にあるように、被告人が被害者方を午前六時前に出発したとすれば、懐中電灯等を所持していなくても、前記(2)の経路を辿り、手提金庫とクリップ抜き(ホイルレンチ)を持って、日の出前の山中に入り、急斜面の山道を登り、金庫発見地点に至り、金庫を破壊することは可能であったと認められる。

(7) ただし、被告人の金庫運搬・破壊に関する自白に、具体性や臨場感に欠ける感のあることは否定できないが、この点は、犯行日から三年余りが経過し、被告人の詳細な記憶が脱落しているとも考えられる上、被告人は、元々境界線級の知能の持ち主であり、言語能力、表現力が乏しいために、その程度の供述しかできなかったとも解されるのであって、直ちに信用性に疑いを抱かせるものとは言い難い。

(六)  被害者方に赴く際の準備

(1) 前記のとおり、犯意の発生時期については供述に変遷があるが、昭和六三年三月一七日以降に作成された供述調書である程度の計画性があったという内容になっているが、一方では、格別凶器等を持参するわけでもなく、当日同女方に全くの手ぶらで赴いていることが窺われるのであり、この辺の準備のなさは、計画的犯行ではあるとの自白と矛盾があるのではないかと思われる。

(2) もっとも、被告人は、前記のとおり境界線級の精神発達遅滞者であり、場当たり的に行動する傾向が認められ、能力的にみて、周到な準備をしなかったとしても格別不自然とはいえない。したがって、この点も大きく信用性を損なうとも言い難い。

(七)  被害者方店舗内で犯行に及んだ理由

(1) 本件自白調書では、被告人が犯行に及んだというのは、若干の変動はあるもののいずれにせよ午後九時前であり、付近の民家が寝静まっている時間帯ではなく、しかもE子方には、高齢で耳が遠いとはいえ、I子が同居しており、E子は、耳の遠いI子と暮らしているせいもあって、普段から声の大きい方であったともいう(証人P'子)。とすれば、E子の不意を襲ったとしても、同女の悲鳴や異常な物音をP'子ら近隣の者(両隣は親族が居住する)が聞きつける可能性は相当高い。

(2) 以上の各事情は、同女方の近隣に住み、長年常連客として出入りしていた被告人が知らないはずはないが、何故被告人が同女方での犯行を決意したのかについて本件自白調書中からは理由を窺い知ることはできない。

(八)  殺害方法について

(1) 被告人の本件自白調書中、E子を殺害する際の具体的方法については、被告人は店舗土間(畳間の西側)に立ち、同女は店舗畳間のこたつの南側に北向きに座っていたところ、被告人は突然ぞうりを脱いで六畳間に駆け上がり、同女の右斜め後方に回り込んで、そこから両手で同女の頸部を前後からはさむようにして絞めたところ、同女は一言も発せずに絶命した(乙一三等)となっている。

(2) しかし、被告人は、同女からみて左側に位置する土間に立っていたのであるから、ここから畳間に駆け上がったとすれば、まず被告人は同女の左側の位置に到達するのが自然であると思われる(別紙図面七参照)のに、自白では、同女の右斜め後方から頸を絞めたとなっており、わざわざ同女の後方を通って回り込んだことになっており、その理由について格別の説明は加えられていない。

(3) 証人H'(被害者の死体の解剖結果報告書を作成した医師)は、その証言中で、一般に扼頸による殺人を既遂まで達するには、加害者と被害者の間に相当な体力差を要し、本件でも、犯人が被害者に馬乗りになって上から手で絞めつけたとするのが、最も自然である旨供述している。

これによれば、本件自白調書にあるように、既に四九歳であり、酒気を帯びた被告人が、中腰の姿勢で、同女が一声も挙げることなく絶命に至るほど、一気に力を加えることができるのかも疑問に思われるが、結局これを検証する手段はない。

(九)  死体を遺棄することにした理由

(1) 被告人の自白調書では、一貫してE子殺害後、物色する前に死体を捨てに行ったのかについては、「そのままではだれかに見つかって私がE子さんを殺したことがばれてしまうと心配になり、E子さんの死体を一刻も早くどこかへ捨ててしまおうと決め」、(乙一三等)と説明する。

(2) この点は、被告人が初めての重大犯罪に狼狽しており、被告人の能力の低さもあってこのように思い込んだものであると、一応説明することは可能である。

(3) ただし、死体は重く、捨て場所の選択も難しいし、運搬途中に発見される危険もあるなど、死体の遺棄はかなりの難事業で、しかも、本件自白調書によれば、被告人は死体を遺棄するために、坂の下に駐車していた軽トラックをバックで移動させ、店舗の西側出入口(坂の上の方)まで乗り付け、出入口から道路側に回り込んで死体を荷台に乗せているというが、このようなことをすれば、軽トラックの移動の際の物音等でI'等近隣の者に発見される危険が大きい。

このように考えれば、本件では死体の遺棄自体は、合理性の乏しい行動とはいえる。

(一〇)  その他

(1) 弁護人は、被告人の自白においては、被害者を扼殺した際、被害者の顔色が白く変わった(乙八等)となっているが、法医学的には扼殺の場合、顔色は淡紫赤色を示すことが常識であり、科学的にみて不合理な内容であると主張する。

確かに、右供述内容が科学的にみて誤っていることは弁護人指摘のとおりであるが、自白の開始が事件発生から三年以上後のことであり、ある程度の記憶の変容があっても不思議ではなく、このような犯行の一瞬間のみの供述に不合理な点があるからといって、さして重視するに足るとは思えない。

また、被害者の顔色の印象などは、現場の照明に左右される面も大きいし、自白ではその後に死体の頸部をひもで絞めたり、手首をひもで結束した上で、死体遺棄をしたというのであるから、例えば月光に照らされた死体の顔貌の印象が強く、それが時の経過とともに殺害時の印象にすりかわったなどの可能性も十分認められる。

(2) そのほかに、本件自白調書中には、E子方店舗の看板の照明を消したことについては供述があるものの、同女生存時には当然点いていたものとおもわれるこたつ、ストーブの灯を被告人がいつ消したか(甲一六、H子証言第八回、第九回等によれば、昭和五九年一二月二九日朝の段階ではこたつ、ストーブは消えていたことが認められる。)については言及がないが、この点についても犯行の流れからすれば重要な点ではなく、時間の経過とともに記憶から脱落したと考えても十分説明はつく。

3  自白内容と他の証拠から認められる状況との整合性が疑われる諸点について

次に、自白の内容が他の証拠から認められる事実と矛盾しないかどうかにつき検討する。

(一)  被害品である手提金庫の在中品

(1) この点で、最も大きい問題点は、被告人が強取したとされる手提金庫の在中品の内容である。

前記認定のとおり、本件手提金庫は、破壊された状態で山林の中から発見されており、その場所周辺に散乱していた一〇円硬貨等が右金庫の在中品であったことは疑いがない。しかし、現場付近から発見された金庫の在中品と思われる遺留品は、右の一〇円硬貨一枚のほか、郵便振替払込金受領証(E子名義)、印鑑入れ、赤色プラスチックラベル、名刺、五銭硬貨、切手、小銭入れ、御守、メモ類等と多種にわたっており、これらの品目のみでは、E子が生前にこの金庫を何のために利用していたかは判然としない。

(2) 被告人の自白によれば、右手提金庫の発見された現場において、クリップ抜き(ホイルレンチを指す)を用いて金庫をこじ開け、中にあった紙幣をポケットに入れ、その余の物はその場に放置して立ち去り、その後車中で現金を数えたところ、合計五万円程度であった(乙一〇、一四等)、とされている。

(3) しかし、証人H子(第一回、第二回)、同G(第一回、第二回)の各供述によれば、本件の手提金庫は主として古銭、記念メダル、記念硬貨等の保管に用いられていたと推認されるのである。

すなわち、前記認定のとおり、E子の亡夫は古銭、記念メダル、記念硬貨等の収集を趣味としており、同女は夫の死後も収集された古銭等を保管していたものであり、一時期、同女の自宅は女ばかりの所帯であるという理由から、奈良市内のG方まで持ってきたことがあったが、Gが預かった古銭等を袋に入れたまま押入に入れているのを見て、かえって不用心だとして再びE子が自宅に持ち帰り、以後は本件手提金庫中に保管しており、時期は特定できないものの、店員のH子も、E子が手提金庫中に古銭、記念メダル、記念硬貨等を保管しているのを見ていて、この際には、太陽の塔のついたメダルが在中しており、これらの古銭類の在中していた本件手提金庫はかなりの重量があったともいう。その後、本件の手提金庫に在中していた古銭類が他に移し替えられるなどしたというような事情は証拠上認められず、E子が殺害された時点でも手提金庫にはこれらの物が在中していたと考えるのが最も素直である。

(4) 本件手提金庫と同時に発見された遺留品の中には、前記赤色プラスチックラベルや五銭硬貨が含まれており、この点も手提金庫中に古銭類が入っていたことの裏付けになると思われる。

もっとも、遺留品の中には、それ以外にも名刺、診察券、小銭入れ、印鑑入れ等古銭類とは関係ないと思われる物も多数含まれており、H子がこの手提金庫をかなり雑多な物の保管に使用していたことも窺われるのであるが、そうであるとしても、古銭類も同時に在中していたことの認定の妨げとはならない。

(6) なお、証人Gの供述(第二回)、昭和六〇年五月一六日付、同月二九日付、昭和六一年一月二〇日付各任意提出書(甲一三八ないし一四〇)によれば、E子の養子であるGは、同女自身あるいは同女の亡夫の生前にこれらの者から若干の古銭、記念メダル、記念硬貨等を貰い、これらを銀行の貸金庫に預けていたが、そのことを本件事件発生時には失念していたこと、捜査の過程でGからミュンヘンオリンピック記念の銀貨が被害に遭っていると捜査機関に届出がなされたが、後にGが銀行の貸金庫に預けていた古銭類からそれが発見され、被害に遭っていなかったと確認されたこと、被害品を確定させるために警察はGに所持する古銭、記念メダル、記念硬貨等をすべて任意提出させたが、それらの枚数は八〇枚以上に上ることなどが認められる。

これによれば、E子やその亡夫は生前に保管していた古銭等のうち若干を養子のGに譲っていたと思われるが、一方、警察の捜査によって、E子の亡夫が植樹祭記念メダルを農協を通じて購入したことが確認されており、親族等周辺の者にこれを譲り受けた者がある形跡がないにもかかわらず、E子の殺害後右メダルの行方がようとしてわからない(証人B' 第二回)、H子が本件手提金庫内にあったのをみたという「太陽の塔がついたメダル」に相応するものが未発見であること、本件手提金庫内の在中品と思われる赤色プラスチックラベル(1964 TOKYOとの刻印がある)の本体である東京オリンピック記念銀貨が未発見であることなどの事情が認められ、これによれば、E子が保管していたと思われる古銭類の相当数が現在なお発見に至っていないことが窺われる。

(7) これらの植樹祭記念メダル、「太陽の塔がついたメダル」、東京オリンピック記念銀貨自体を一つ一つ取り上げれば、本件犯行時までにE子が他者に譲渡したり、紛失したりした可能性も否定できないところであり、本件犯行の被害品であると断定することは困難であるが、証人H子及び同Gが口を揃えて、金庫中の古銭類は相当重量があったと述べているにもかかわらず、これに相応する古銭類がE子方からほとんど発見されていないことは重視せざるを得ない。

(8) そして、被告人の自白に至るまでは、捜査機関側も、古銭等が被害品の一部であると考えて、その行方を追っていたことが認められる(証人B' 第二回)。

(9) E子方では、もともと金庫は三つあり、それらは本件手提金庫と更に小型の暗緑色の手提金庫と家具調の据え付け金庫であって、このうち小型の暗緑色の手提金庫は普段は店舗畳間のこたつの中に隠されていて、主として売上金を入れたり釣り銭を出したりするために使用されていた(証人H子 第一回)と認められ、また、据え付け金庫は被害者の失踪後開扉したところ、二九万円余の現金や預金通帳等が在中していたと認められ(甲一六)、これによれば、右据え付け金庫は比較的多額の現金や預金を自宅で保管するために利用されていたと考えられる。なお、証人H子(第二回)は、暗緑色の手提金庫中の現金が多額になると、被害者が奥座敷に持って行っていたと供述するが、これはこの据え付け金庫中に移し替えていたものと思われる。

これによれば、この暗緑色の手提金庫及び据え付け金庫以外に、本件手提金庫を現金の保管に使用する必要性は乏しかったというべきで、金庫中に五万円もの現金が保管されていたかは疑わしい。

(10) 以上によれば、被告人の自白のうち、手提金庫の中から現金五万円位を奪い、残りを放置したとの部分は、証人H子、同Gの供述等の証拠によって認められる本件金庫の利用状況と合致していない疑いが濃い。

(二)  被害者方での記帳の習慣

(1) 前記のとおり、被害品である手提金庫が売上金管理のために利用されていなかったとするならば、被告人の自白中の、被害者がこたつにおいて金庫を傍らにおいて帳簿記帳をしていたとの供述内容も極めて疑わしいものになる。

すなわち、金庫を傍らにおいて帳簿を記帳するというのは、当然、帳簿上の売上金を計算し、保管されている現金と合致するかを確認するためと考えられるのであるが、本件の手提金庫は主として古銭類の保管に用いられていたと思われ、売上金を管理するための金庫は他に二つあり、記帳時に本件手提金庫を持ち出す必要はない筈である。

また、そもそも、手提金庫を奪取したとき、金庫が施錠されていたというのも不審である。記帳の際、施錠したままの金庫を横に置いておくことは無意味だからである。

(2) 更に、証人H子(第二回)は、E子方店舗で付けていた帳簿は、配達等の予定や売掛金を記した日掛帳と個人別の売掛金を記した元帳の二種類に過ぎず、現金で売った場合も含めて営業の全体を記した商業帳簿類は作成していなかったこと、日掛帳は配達の予定や掛け売りの度に記載し、元帳はE子が手のすいたときに日掛帳から転記していたが、転記の際には金庫の中身と照合する作業はしていなかったと供述する。

(3) このうち、日掛帳及び元帳の内容は、日掛帳写し(弁四八)及び元帳写し(弁四九)によって裏付けられているところであるし、H子は通いの店員であるから、夜間にE子が売上金計算のためにどのような行動をとっていたかまでは一概に分からないとしても、帳簿と現金の確認作業は、現金での販売を含めて営業の全体を記した帳簿類があって初めて意味をなすものであり、同女方店舗での帳簿類は単に売掛金の内容を示すに過ぎないものであるから、右帳簿の内容と現金を照合する意味はなく、このような習慣はなかったとの前記証言内容は一応信用できると思われる。

(4) 更に、証人Q'及び同人の警察官調書(甲三三)によれば、昭和五九年一二月二八日、滋賀銀行員が現金二〇〇万円及び小切手額面三〇万円を同女方店舗から集金しているが、その際、同女は現金はきちんと勘定の上、ゴムバンドで束ねていたことが認められ、これによれば、被害者は当日の銀行員の集金までに店舗にある現金額を確認していたと考えられるから、その日の夜に再度現金を確認する必要は乏しかったと思われる。

(三)  他の被害品について

(1) 手提金庫に在中していた古銭類が被害品であると思われることについては、前記のとおりであるが、その他にも被告人の自白調書中には記載がないものの、被害品と思われるものがある。

(2) まず、一つは、積立預金通帳七通である。証人G(第一回、第二回)、同R'、同B'(第二回)によれば、E子は銀行等に月掛けの積立預金を数口しており、その預金通帳類は茶色の手提鞄に一括して入れて保管し、銀行員が被害者方に集金に来たときは、右鞄から通帳を出して手続きをしていたこと、昭和五九年一二月二〇日ころにも、この中の一口の積立預金につき銀行員が集金しており、その際には通帳の存在が確認されていること、E子失踪後しばらくして、Gが右の通帳類が鞄ごと見当たらないことに気付き、本件の被害品として申告したこと、その後も結局右の通帳類は発見されなかったことなどが認められる。

証人J'(第二回)、同B'(第二回)らは、GやH子は、通帳が入れられていた茶色の手提鞄の特徴をはっきりと供述できず、E子方からは、同じく茶色の手提鞄が複数個出るなどしたこと、Gから、同女の失踪が判明した直後、店舗内の整理のため、不要と思われる物を焼却処分したが、その中に積立預金通帳類が含まれている可能性もあるとの供述を得たことなどにより、結局これらの通帳を被害品から除外することにしたと供述する。

しかし、証人G(第二回)は、確かにK方で、古新聞や失効後の通帳類のような不要物を燃やしたことはあるが、通帳については一通ずつ確認しながら燃やしたと供述し、また、本件の積立預金の通帳類は、もともと鞄に入れて一括して保管されていたというのに、これらを不注意で焼却するということは考え難い。

そして、昭和五九年一二月二〇日には、銀行員が通帳の一通の存在を確認しており、本件でE子が失踪する以前に同女周辺に異変があったことが窺われない以上、これらは、当初の申告通りに鞄ごと犯人によって奪取されたと考えるのが最も自然である。

しかるに、被告人の自白調書においては、通帳類は強取していないとされている(乙二二)。

(3) E子方にあった日除けシートも被害品ではないかと考えられていた一つである。

証人R'及び同B'(第二回)によれば、昭和六〇年四月頃、H子から二枚あった日除けシートのうちの一枚がなくなっているとの申告があり、これも被害品として検討していたが、結局、被害にあったのかそれ以外の理由で紛失、滅失したのかは判然としなかったことが認められる。

このシートについては、財物的な価値はあまりなく、H子が紛失に気付いた時点が、E子失踪よりも数か月経過した後であるから、本件事件とは別の機会に紛失、処分された可能性も高く、これを被害品として特定することには無理がある。

(4) 以上を総合すれば、日除けシートはともかく、手提金庫中に在中していたはずの古銭類、茶色手提げ鞄に保管されていた積立預金通帳は、本件犯行の被害品であると考えられるにもかかわらず、被告人の自白調書ではこれらについての言及がなく、この点も自白の不審点というべきであろう。

(四)  他の場所を物色した可能性

(1) 前述のとおり、昭和五九年一二月二九日朝の時点において、奥六畳間に置かれていた家具調据え付け金庫の鍵穴に、金庫の鍵が差し込まれていたが、ダイヤルが合わなかったために結局金庫は開扉された形跡はなかったのであるが、証人H子(第二回)の証言等によれば、金庫に差し込まれていた鍵は、玄関の鍵等と一緒に鍵束の状態にしてE子が日常に使用していたものであり、発見時も鍵束の状態であったことが認められる。

通常、玄関の鍵などが含まれる鍵束は、外出時はもちろんこれを持ち歩くであろうし、在宅時も比較的手に取り易い場所に保管しておくものと思われ、通常人が、鍵束を金庫の鍵穴に差し込んだ状態で保管するとは考えられない。

金庫の鍵穴に鍵が差し込んであったということは、何者かが金庫を開扉しようと試みたとみるのが最も自然であるが、E子自身が金庫を開扉しようとしたならば、ダイヤルの数字も当然心得ているから、中途でこれを放棄することはあり得ず、結局、これは犯人が何らかの方法で鍵束を奪取してこの金庫を開けようとしたものと推認される。

しかし、被告人の自白によれば、物色したのは店舗畳間のタンス及び机の引き出しのみであり(この点が不自然であることは前述のとおり)、奥六畳間まで入って物色したことは何等記載がなく、もちろん家具調据え付け金庫については、全く記載がない。

とすれば、被告人の自白では、当然犯人がなしたと思われる物色行為とは異なる説明がなされていることになる。

(2) 証人G(第一回)の供述によれば、奥六畳間の押入れの布団カバーの上に本件の手提金庫は置いた痕跡があったことが認められ、前記(二)に記載したとおり、本件犯行時にE子が記帳のために右金庫を持ち出していたとは考え難いことによれば、犯人はこの奥六畳間の押入れで手提金庫を発見して奪取した可能性が高い。

この点も犯人が少なくとも奥六畳間に対して物色を行ったことの裏付けになると思われる。

(3) なお、弁護人は、昭和五九年一二月二九日朝に、北側離れの出入口が開放されたままになっており、ドア及びドア枠には擦ったような痕が残されていた(甲一六)ことを指摘し、これは犯人が離れに対しても物色を行った証左であるとする。離れについて物色がなされたかは、これ以上の資料がなく、結局判然としないのであるが、確かに弁護人の指摘する可能性も否定はできないと思われる。

(五)  店舗西側出入口の施錠

(1) 昭和六〇年一月五日に実施された実況見分において、立会人のH子は、昭和五九年一二月二九日朝の店舗の施錠状況につき、東側、西側出入口とも施錠されており、西側出入口の施錠状況については、道路側にある板戸は落とし錠が落とされた状態で、サッシについては店舗内側からつっかい棒がしてあったと指示説明している(甲一六)。もし、この状態が真実であるとするならば、最終的に金庫を奪取して店舗の西側出入口から逃走したという被告人の自白は、全くこの施錠状況と合致しないことになる。

(2) この点について、証人H子(第一回)は、昭和五九年一二月二九日朝、店の前まで来ると、路上に客がおり、「おばさん(E子を指す)、いいひん。」と怒っているようだったので、当然東側出入口も西側出入口も施錠されていると思い込み、K方から店舗に入って店を開けたが、その際、東側出入口については施錠をはずした記憶があるが、西側出入口はよく考えてみると施錠をはずした記憶がない、このことに気がついたのは、昭和六〇年一月五日の実況見分の後(被告人逮捕より前の時期)、警察官に当時の施錠状況についての記憶の再確認を求められ、よく考えてみた結果である、と供述する。

これによれば、H子は、西側出入口の施錠の有無についての記憶を比較的早い時期から失っていることが窺われる。もっとも、同女は、施錠していなかったことを思い出したというのではなく、結局施錠していたかしていなかったか判然としないというに過ぎない。

(3) 弁護人は、前記供述内容につき、捜査機関によって混乱させられた後の記憶に基づくものであり、更に、仮に西側出入口が施錠されていなければ、そのことはH子の印象に残るはずであるところ、同証人はそのような印象も残っていないとするのであるから、新鮮な記憶に基づいてなされたはずの当初の指示説明の内容を覆すものではない、と主張する。

(4) 確かに、一般論からいえば、記憶は時とともに減退するものであるから、当初は確固たる記憶に基づいて説明した事項であっても、相当期間経過後に右説明が正しかったかを再確認されれば、自信がなくなることはよくあることであり、逆に、後日に記憶をなくしてしまったからといって、当初の説明が必ずしも間違っていたことにならない。

したがって、昭和六〇年一月五日の時点で、H子が西側出入口は施錠されていたと指示説明したことは、当時の新鮮な記憶に基づいてなされた正しい説明である蓋然性は多分にあるというべきであろう。

(5) しかし、一方、同証人の供述によれば、昭和五九年一二月二九日朝、H子は、客の応対と、E子の安否を確かめるため作業を同時になす必要に迫られ、相当に慌てて行動していた様子が窺われるのであり、このような状況下では、えてして各出入口の施錠状況等の細かい事柄は意識に上りさえしないこともあり、また、客が路上で騒いでいたことに照らせば、当然、出入口は東側も西側も施錠されているはずであるとの思い込みが生じ易い状態があったともいえる。

そして、同証人が、実況見分中の施錠状況に関する指示説明のうち、自信がないのは西側出入口についてだけである、と供述していることも併せると、真実は西側出入口は無施錠であったにもかかわらず、実況見分で誤った思い込みによる説明がなされた可能性も否定できないところである。

(6) 結局、前記一二月二九日朝においては、西側出入口は施錠されていた可能性もあるが、反対に施錠されていなかった可能性も認められ、この点は、自白の内容が明らかに客観的事実に反しているとまではいい難い。

(六)  被害品である手提金庫のダイヤル等の未発見

(1) 前記のとおり、自白では、E子方店舗から手提金庫を奪取した後、金庫発見現場でこれを破壊して、中の現金(紙幣)のみを取り、その余はその場に残したとされている。

(2) ところで、本件手提金庫(昭和六三年押第四〇号の二)の前面には、鑑定書(職権一四)によれば、元々ハンドル一つとダイヤル、ダイヤルウケ、ダイヤル軸各二つずつ、バネ等の微細な部品数個が取りつけられていたが、発見時には、これらは存在せず、金庫が破壊され開扉された際に外され脱落したと推認される。

(3) しかるに、昭和六〇年五月八日付実況見分調書(甲二〇)及び、当時、日野署刑事課長の証人A'の証言等によれば、手提金庫が発見された当日、警察官十数名が、右金庫の発見地点を中心として、山中の相当広い範囲を検索し、その後二回も検索が実施されたが、金庫が発見された現場付近からは、これら脱落した部品は一切発見されなかったことが認められる。

(4) この点につき、弁護人は、脱落した部品を犯人、動物や第三者が持ち去る筈はなく、これは手提金庫が他所で破壊されたことを物語っていると主張する。

しかし、金庫付属部品の検索が、どのように実施されたかについては、証人A'の供述によれば、金庫発見の当日は数時間で終わったとのことであり、他の二回の検索の人員、時間、範囲をも含め、それが現場にある松葉等の落ち葉や石ころなどをどのような方法で選り分け、どのような精度をもって行われたか、その詳細が不明であって(本来、捜査当局は、検索の実施状況報告書を作成しておくべきものである。)、発見、未発見は、右のような検索の実施状況に依存するから、未発見が直ちに金庫発見現場付近に前記部品が存在しないことを意味するものではない。

(5) とはいえ、部品のうち、小さなバネ等は、風雨により流されたり、腐食して土中に埋もれてしまう可能性もあるが、ハンドル、ダイヤルウケ等は、現場から発見された一〇円硬貨と遜色ない大きさであって、紙製である診察券や名刺が遺留されていたにもかかわらず、これらを動物が持ち去る筈はなく、犯人や通りかかった第三者も持って行くとも考えられないのに、一切発見されていないことは、確かに奇妙と言わざるを得ず、別の場所で金庫の破壊行為を行った上、発見現場に投棄したとも考えられるのであり、被告人の自白には、疑問を入れる余地のあることは否定できない。

(6) ところで、前記実況見分調書(甲二〇)、証人Y子、同A'の各供述によれば、同女らが金庫を発見したとき、裏返しになった桐製の中箱の上に手提金庫が蓋を開けたままこれまた裏返しの状態になっており、手提金庫の位置から工事道方向に紙片等が点々と落下している状態であったことが認められる。

そして、右の金庫及び内容物の発見状況に加えて、平成二年一月二四日実施の検証調書添付の写真46、49によれば、工事用道から金庫発見場所を見通すことができ、その間の距離が一三・六メートルであることを合わせ考えると、犯人は他所で手提金庫を破壊した後、工事道上から金庫発見現場付近を目掛けて、金庫を内容物とともに投棄したと考える方がはるかに自然かつ合理的であり、このように考えれば、金庫や中箱が裏返しになっていることや、紙片の散乱状況も無理なく説明できるとも考えられない訳ではない。

(7) しかし、本件の発生後、四か月経過後に金庫が発見されており、その間にY子ら以外の山菜取り等の第三者が右金庫を発見して、発見時の状態に捨て、その後風により軽い紙片が飛び散った可能性も否定できず、更に、金庫は、高さ約一四センチメートル、幅約三五・一センチメートル、奥行き約二四・九センチメートルの大きさの鉄製のもので一応重量もあり、投擲し易い形状ではなく、前記写真46、49のように見通すことができるとしても、金庫発見場所まで林の中の木々の幹や枝に衝突することなく投擲できるかは疑問であり、これが可能であったとの証拠もないから、工事用道から金庫を投棄したというのは、一つの仮説に過ぎない。(なお、後記のとおり、被告人は金庫発見現場への引当捜査の際に、正しく金庫のあった位置を指摘していることが認められるのであるが、仮に被告人が工事用道から金庫を投棄しただけであるとすれば、工事道から下の林の中に入ることなく、金庫が発見された松の木をこのように的確に指示できるか疑問がある。この点も併せると、やはり、犯人が工事用道から金庫を下方の山林内に投棄したとは認めるには無理がある。

(8) したがって、金庫を棄てた状況の自白は、被告人は、桐箱の下に入っていた現金を取り、それ以外の領収書のようなもの等は、そのまま金庫ごとその場に残した(乙一四)というのであり、金庫等の発見時の状況とは異なっているが、この点は自白の信用性を減ずるものとまではいえない。

(9) もっとも、本件の手提金庫は、他所で破壊された疑いがあることは否定できず、この点は自白の信用性に疑問を入れる余地がある。

(七)  被害品である手提金庫の損傷痕跡

(1) 本件自白調書では、被告人が使用していた軽トラックに積載されていたクリップ抜き(ホイルレンチを指す)で強取した手提金庫を叩いたりこじたりして開けた、とあり、このホイルレンチは証人L"の供述等によれば、押収してあるホイルレンチ一七ミリ(昭和六三年押第四〇号の七)と同種のものであるとされる。

(2) この点につき、弁護人は、本件手提金庫の損傷痕跡のうち、蓋上角部中央の凹損(鑑定人S'作成の鑑定書中の⑪の痕跡)、本体上角部中央付近の茶色擦過痕(同①の痕跡の近く)、ネームプレート裏面の擦過痕(同⑩の痕跡)は、明らかに本件自白調書に記載のとおりにホイルレンチを用いたのでは付けることができないものであるし、また、中央のハンドルを脱落させるには、これを回転してネジを緩めるしか方法がないが、これは自白調書の内容とは異なると主張する。

(3) これらのうち、茶色擦過痕は、本件手提金庫が奪取される以前からの痕跡と考えて矛盾はないし(通常の開扉によってできた塗膜の剥離部に錆が生じたものではないかと思われる。)、ネームプレート裏面の擦過痕は、ハンドルが残存していないために果たしてホイルレンチで付けることが不可能かどうかの検討ができず(職権一四、一五、証人S')、いずれも自白が客観的事実に反するとまで言うことはできない。

(4) 更に、昭和六三年三月三一日付警察官調書(乙一六)等では、金庫本体と蓋の隙間にホイルレンチを差し込んでこじたり、ダイヤルを叩いたりこじたりして取り外したこと等だけが記載されているだけであるが、施錠された金庫を開扉するためには、色々と試行錯誤を繰り返していることが当然推測されるのであって、被告人の同月二九日付検察官調書(乙一四)においても、「クリップ抜き(ホイルレンチのこと)をどのような順でどのようにこじあげたかははっきり思い出せないところもありますが、とにかくいろいろこじているうちになんとか金庫が開きました。」と記載されている。

金庫の開扉は強盗殺人の犯行の中では比較的緊張感の少なくて済む行為であるから、その中の主要な行為は記憶していたとしても、試行錯誤の一部始終までを記憶することはおよそ無理であり、三年以上の経過後の自白であることを考えれば、ハンドルを回転させて取り外したことを忘れてしまったとしても、あながち不自然ではない。

(5) しかし、蓋上角部中央の凹損⑪については、前記鑑定書(職権一四)、「提出した鑑定書における誤記の訂正について」と題する書面(職権一五)、証人S'の証言等によっても、金庫を破壊した際にできた痕跡と考えられるにもかかわらず、その使用工具はホイルレンチとは考え難いとされており、この点は検討を要する。

すなわち、前記警察官調書(乙一六)によれば、蓋上角部中央の凹損及び本件前面の左側及び右側のダイヤル錠が取り付けられていた部分の上側の二か所の損傷は、いずれもホイルレンチをダイヤルの隙間に差し込んでテコの応用でこじたためにできた(なお、右記載からみて、このダイヤルというものの中には、ダイヤル錠のみならずハンドルも含まれると考えられる。)と説明されているが、前記鑑定書等によれば、この蓋上角部中央の凹損は、底面がほぼ平坦で幅は約二〇ミリメートルであるところ、ホイルレンチの中央部は直径一センチメートル程度の円柱形であるから、このような大きさ、形状の痕跡を残すことはあり得ない、というのである。

(6) 以上の内、前記警察官調書(乙一六)記載通りの方法で痕跡⑪を発生させることが無理である、という点に限れば、鑑定人の右意見はその通りであり、その意味で右警察官調書には体験してもいないことが述べられているということになるであろう。

しかしながら、押収されたホイルレンチと右痕跡⑪の形状を子細に比較検討したならば、蓋前面に取り付けられたネームプレート(TIMES STEEL CASH BOX等と記載されたもの)と蓋本体との間に幅約二〇ミリメートルにわたり不自然な間隔を生じており、この部分に上方からホイルレンチの刃先を差し込んで、テコの要領でこじたならば、蓋上角部中央に底面の平坦な凹損を作ることができると考えられる。

したがって、右痕跡の存在のみをもって、金庫破壊に使用した工具がホイルレンチ以外にもあった筈である、とまで認めることはできない。

そして、被告人の自白が三年以上経過したものであることを考慮すれば、具体的な痕跡の発生機序について記憶を有しておらず、思い込みで誤った説明を加えたとしても、格別不審とは言えないであろう。

(7) 以上によれば、本件自白中の金庫の破壊の手順については、説明が誤っている部分や欠落している部分があるといえるが、これは時の経過によって失念してしまったとして説明は可能である。

(八)  被告人の指紋が一か所しか発見されていないこと

(1) 弁護人は、被告人が自白のとおりに物色行為を行っていたならば、前記丸鏡(両面鏡 昭和六三年押第四〇号の三)以外に、タンス、机等にも指紋が残っているはずであるにもかかわらず、可動性のある鏡以外には指紋が残されていないことは、払拭できない疑問であるとする。

(2) しかし、E子方店舗内にある家具は木製でしかも古い物が多いところ、このような家具からは指紋を採取することは一般に困難であり(証人U)、更に、鑑識活動が行われたのは昭和六〇年一月五日になってからであって、それまでの間、店員のH子は酒店の営業を行い、E子の親族や近隣の者が同女の捜索活動を行うに当たり、右店舗でこれらの者に茶等を振る舞うなどして使用し、親族が紛失したものの確認をしたり、不要物の処分を行うなど、多数の者が出入りし、店舗内の各所を触れて回ったことが認められる。

(3) これらによれば、E子方での指紋の採取には、もともと相当の悪条件が重なっていたものであり、本件犯行時に犯人が付着した指紋があってもその多くは消失したとしても何等不思議ではない。このように考えれば、余人があまり手を触れると思われない本件両面鏡のみに被告人の指紋が残されていたことは、自白の内容と矛盾しない。したがって、この点に関する弁護人の主張は失当である。

4  自白の信用性についてのまとめ

(一)  以上を前提として、本件自白の信用性について検討するにあたり、その基本姿勢につき付言する。

自白の信用性を吟味するにあたっては、自白の成立経過の問題、供述の変遷状況、自白内容の合理性、他の証拠との符合などの諸点を分析してどのような問題があるかを浮かび上がらせる一方、本来的に自白が有機的に結合し、流動的であることを念頭に置いて判断する必要があり、その双方の観点が等しく重要であると考えられる。そして、特に本件の強盗殺人のような重大事件においては、犯人としては、たとえ自白したとしても、なるべく責任を免れ、もしくは軽減させたいと思うのが通常であるから、供述が変遷をするのはむしろ自然ともいえるし、場合によっては、真実と虚偽を混ぜ合わせて供述する場合もある。したがって、供述の基本部分に関心をもって検討すべきであるといえる。

もっとも、変遷のある自白、不合理な内容を含む自白、他の証拠と矛盾する自白等が問題のある自白であることにはかわりはなく、自白の根幹部分にまで影響するか等を慎重に吟味する必要があることはいうまでもない。

特に、明らかに虚偽と認められる事実が自白中に含まれている場合は、この中から真実の部分を選別する作業は、細心の注意を払ってしかるべきと考えられる。

(二)  前記の観点に立って、被告人の自白に検討を加える。

検察官は、被告人の自白には若干の問題が含まれていることを率直に認めながらも、その根幹部分にはなお信用性が認められると主張し、根拠として

① 根幹部分においては、終始一貫している。

② 被告人ならではの心境の供述がある。

③ 体験した者の供述といえる具体性、迫真性がある。

④ T'子、P'子の各証言、指紋、死体の解剖所見や死体の発見時の状況等との符合があり、客観的証拠関係や情況証拠と符合する。

⑤ 手首の結束方法や金庫発見現場への経路について、秘密の暴露に準ずる内容がある。

⑥ その他についても自白の内容に裏付けがある。

などの事情を挙げる。

(三)  一方、弁護人は、被告人の自白内容は、次の諸点で不合理であるとする。

① 扼殺時に被害者の顔色が白く変わったというのは、科学的に有り得ない。

② 西側出入口から逃走したというが、同所は施錠されていたと考えられる。

③ 手提金庫開扉の方法と工具痕跡が一致しない。

④ 手提金庫を破壊し、遺留したという現場からダイヤル等の脱落部品が発見されていない。

⑤ 自白では、奪取したのは手提金庫内の現金であるとされるが、同金庫には古銭、記念メダル等が入っていたはずであるし、通帳等も被害品である。

⑥ 自白では、物色したのは店舗畳間だけとされるが、実際には奥六畳間や離れにも物色の痕跡が残されている。

その上で、被告人の自白は動機面等においても不自然であるし、秘密の暴露と呼ばれるような部分は含まれず、かえって捜査官の認識の変化に連動して供述が変遷し、具体性と抽象性の均衡を欠くため、全く証拠価値を有さないと主張する。

(四)  このうち、自白の成立過程の問題については、自白の任意性について検討したように、昭和六三年三月九日に被告人の任意取調を開始する以前から、検察官及び警察官らは被告人の自白が得られたとしても、その任意性が問題となるであろうことは予想しており、取調警察官は強制や誘導にわたることがないよう注意を払いながら取調を行い、検察官は、自身が被告人を取り調べる際に警察での取調状況を検証するという体制で臨んでいたこと、被告人は同月一一日夜に自白に転じた後も、同日は逮捕されることなく帰宅し、自宅において、家族から真犯人でないのなら勇気を出して本当のことを言うように励ましを受けたにもかかわらず、翌一二日に同様の自白を維持し、逮捕されたこと、その後同月三〇日に開かれた勾留理由開示法廷において、被告人は警察等の取扱いに対して謝意を表していることなどが認められるのであり、これらによれば、被告人の自白が捜査官の押しつけ、誘導の所産であることはあり得ず、かような状況の下で被告人が自白に転じ、これを維持し続けたことは、大きな意味を持っていると考えざるを得ない。

しかし、任意の自白であるからという理由だけで、自白内容が虚偽である可能性を払拭できるものではないし、犯人の中には、捜査を混乱させ、刑事責任を逃れる等の目的から、真実と虚偽を混ぜ合わせて供述する者がままみられるところであって、なおその内容の真実性は厳密に判断されるべきであろう。

(五)  まず、被告人の自白の根幹部分が維持されていること、供述の変遷は、事件発生から三年以上後の自白であることからすれば不合理とはいえないこと、自白内容にある程度の具体性があること、金庫発見現場までの経路等、捜査官が予想もしなかった部分が含まれること、などは検察官指摘のとおりであり、これらは自白の信用性を一層高めると解されないでもない。

(六)  しかし、一方、弁護人の指摘する本件自白の不合理な点のうちいくつかは、傾聴すべきものがある。

すなわち、前述のとおり、本件の被害品である手提金庫の中には、E子の亡夫の収集品であった古銭類が保管されていたのに行方不明となっており、このほか、少なくとも積立預金通帳類が奪取されていると考えられるのに、被告人の自白では、この古銭類や積立預金通帳類を奪ったことは全く出て来ないばかりか、通帳の奪取については明確に否定している。

また、犯人は、少なくとも奥六畳間の家具調据え付け金庫の開扉を試みたと認められ、その前提としてE子から鍵束を奪ったことも推認できるのであるが、被告人の自白にはその旨の供述が欠落している。被告人の自白では、E子は殺害される直前は、手提金庫を傍らにおいて記帳をしていたというのであるが、これは同女にはこのようにして記帳をする習慣はなく、当日特にこのような作業をする必要性もなかったというべきである。

奪取した手提金庫を破壊した場所は、金庫発見現場とは異なる場所の可能性もあると思われ、この点も否定的要素になり得る。

これらの諸点は、被害者の殺害直前の仕事の様子、その後の物色、被害品の奪取にかかわる重要な事柄であり、いかに三年以上の時の経過を考慮しても、忘却や記憶の経時的変化等で説明できるものではなく、仮に被告人が犯人であるとするならば、これらの点は故意に虚偽の供述をしているとしか思えない。

(七)  また、犯行の動機、死体搬送の経路等について、不自然さがあることも前述のとおりであって、これらの不自然さは、被告人の狼狽や知的能力の低さから、合理的に行動することができなかったから、と説明をすることはできるが、前記のように被告人の自白中に虚偽の部分があるとすれば、これらについても虚偽である可能性を払拭できないのではないかと思われる。

(八)  次に、被告人の自白中には、秘密の暴露に相当する部分がないことも、弁護人指摘のとおりである。

証人F'の供述中には、「昭和六三年三月一一日に被告人が自白を開始した当初、被害者の頸部に策状痕があることは失念しており、被告人が殺害方法として、扼頸した後ひもで被害者の頸部を絞めた、と供述したので、被害者の死体の解剖結果報告書を確認して、被告人の供述が正しいことを確かめた。」という部分がある。

これが真実ならば、被告人は取調官が失念していたことを自発的に言い当てたことになり、自白の信用性を高める要素となり得るが、証人F'も認めるとおり、解剖結果報告書(甲九)は、被告人の取調を開始する以前からある書類で、同証人も事前に目を通しているのであって、被告人の自白開始時に真実そのことを失念していたかは、確認のしようもなく、これを秘密の暴露に準ずるとまでいうのは、慎重を期すべきであろう。

検察官は、① 金庫発見現場に至る経路は取調官が予想していたものとは異なっていた、② 被告人の供述により、被害者の手首の結束方法が精肉店で肉の包を結束する方法とほぼ同一であることが確認された、といい、これらを秘密の暴露に準ずる事情であると主張する。

しかし、①については、確かに被告人の供述する経路は独自のものであり、この経路を通って山中に至ったことは認められるとしても、金庫発見場所において金庫を破壊したとの点については、必ずしも立証されておらず、他の場所で破壊された可能性が否定できないところであるし、②については、肉の包の結束方法については、プラスチック製品の普及以前には、多くの精肉店で採用されており、被告人の自白を待つまでもなく、死体の手首の結束方法と前記結束方法に共通点があることは、捜査官に予測がついていたと思われ、いずれの点も、秘密の暴露同様に被告人の自白の信用性を高めるとまで言うことは難しいであろう。

自白中に秘密の暴露がない、ということは、本件のように事件発生から被告人の検挙までの間が長く、その間に捜査官側が多くの証拠を収集した事件については、珍しいことではなく、この点をもってただちに被告人の自白に信用性がない根拠ということはできない。しかし、自白中に秘密の暴露があり、それが犯行の根幹部分にかかわる場合は、たとえ自白のその余の部分に不自然な部分や虚偽の部分があるとしても、その被告人は犯人しか有していないはずの知識を有していたことになり、被告人と犯人の同一性が強く推認されることになり、その意味で自白の信用性を飛躍的に高める要素となるが、秘密の暴露のない自白については、供述の一部に不自然、あるいは虚偽の部分が含まれれば、それだけ信用性が低められることは避けられない。

(九)  以上によれば、被告人の自白には、他の証拠と明らかに矛盾する部分があり、これは忘却等では説明できないこと、その余にも著しく不自然とまではいえなくとも、果たして被告人の体験を供述したのかについて疑問を抱かざるを得ない点が多く認められることは否定できない。被告人の自白の根幹部分が一貫しているとはいえ、その根幹部分にも矛盾点(被害品、物色場所等)があるのであり、これに重きを置くことはできない。

なお、自白の一部に虚偽の部分があっても、真実の部分と虚偽の部分とを分離できる確実な根拠があれば、その分離された真実の部分の信用性を認めることができる場合もある。しかし、前述のとおり、虚偽の含まれる自白というのは、それ自体大きな問題があるのであって、そこから真実の部分を分離するには、単にその部分が合理的で客観的な証拠関係に合致するから、というだけではなく、秘密の暴露やそれに準ずるような事情が認められるなど、相当に強い根拠が必要と思われる。これを本件についてみるに、被告人の自白中の本件犯行にかかわる部分から、特に一部を取り出して信用性を認められるかについては、そのような根拠を見いだすことはできない。

(一〇)  結局、これらを総合すると、被告人が任意に自白に至ったという事実自体は、本件を検討する上で一つの事情として注目に値するといえるが、その自白内容に従った事実認定ができるというほど自白の信用性が高いとは考えられない。

したがって、被告人と犯人の同一性の認定については、もっぱら自白以外の証拠を中心として、更に検討を加えるべきである。

第四被告人の自白以外の証拠(情況証拠)に対する検討

一 死体や店舗の状況から推測される犯行の態様及び犯人像

まず、第二で認定した死体、金庫、事件に関連すると思われる現場の状況に照らして、犯行の態様や犯人の特徴について考察を加える。

1  死体の状況から推測できる事柄

第二の一で認定したとおり、E子の死体は普段着姿で発見されていることから、同女の就寝前あるいは起床後に殺害されたものと考えられるが、同女方奥一〇畳間には布団が一組(I子のものと思われる)が残されていたことや朝の明るい間に凶行が敢行されれば発覚しやすいことを考慮すれば、就寝前に殺害されたと見るのが常識的である。

同女の死体の着衣及び表皮には、頸部や顔面を除くとほとんど損傷はなく、したがって犯人と同女が激しく争ったとは認められず、犯人は同女の不意を襲うなどして、ほぼ無抵抗の状態下で殺害したと見られる。

なお、死体の着衣は発見時腰付近で上下に分かれていて、腹部、腰部の皮膚の一部が露出している状態であったが、同女が当時六九歳と比較的高齢であったことや、下半身に相当な枚数の下着を着た状態のまま発見されていることを考えれば、犯人にわいせつ目的があったとは考えにくい。むしろ、上着の背部側が腰部側より大きくめくれあがっていることにも照らすと、これは犯人が同女の死体を抱えて運んだことに起因すると思われる。

2  死体発見現場及び金庫発見現場から推測できる事柄

第二の一及び二に記載のとおり、死体発見現場と金庫発見現場はともに日野町内にあるが、普段は人気のない場所であり、特に金庫発見現場は山中にあり、近隣の者が山菜採りに訪れる他は人車の立ち入らないところである。これらによれば、犯人は各現場に土地勘があり、これらの現場に人の立ち入りが少ないことを知っている人物である可能性が大きい。

3  被害者方の状況等から推測できる事柄

第二の三で認定したとおり、店員のH子が昭和五九年一二月二九日朝にE子方に入った際、I子はこたつの置いてある間に座っており、そのこたつや台所等にコップ、皿等が放置されていたが、酒類の並び方などに特に異常はなく、なくなっている物があることに当日は気づかなかったという。これによれば、同日朝には、E子方には争った跡や物色の痕跡が顕著に残っていたということはできない。

また、I子が「(E子は)わし一人おいてどこかへ行った。」と説明するなどしていることに照らすと、I子が就寝している間に犯行がなされ、同女自身は全くこれに気づかなかったと認められる。

更に、後記のとおり、証人P'子(向かいの住人)も、前日(二八日)夜にはE子方からE子の声は聞こえたものの、特に異常な物音は聞こえなかったと証言し、西隣に住む甥の証人Jも、同日午後一〇時ころに就寝するまでに特に変わった物音はなかったと供述している。

これらを総合すると、前記のとおりE子と犯人は争わなかっただけではなく、同女が自宅において助けを求めたり、騒ぎ立てることもなかった可能性が非常に高い。

4  まとめ

以上の事情を総合しても、E子が自宅内で殺害されたか、他所へ連れ出されて殺害されたのかは判然としないというべきであろう。

しかし、E子がうかつに夜間に高齢の同居者を残したまま、隣接の親戚筋の者などに言伝てもなく、施錠もしないで外出するとは思われず、E子が連れ出されて殺害されたとすれば、犯人は同女がかなり気を許した相手と考えるのが常識的である。

また、自宅内で殺害されたとしても、犯行は就寝前と思われるから、仮に見知らぬ者が押し入るなどすれば、同女は当然周囲に助けを求めるであろうし、抵抗を試みることも十分考えられるところ、前記のとおりそのような痕跡は残っていない。したがって、同女は、犯人が自宅内に入って来た際には特に警戒をしていなかったのではないかと思われる。

しかも、犯人は死体発見場所及び金庫発見場所からして、日野町内に土地勘を有しているものと考えられる。

これらによれば、本件の犯人は、E子の身近におり、同女が警戒心を持っていなかった相手、すなわち親族、知人、客等面識のある人物である可能性が高いというべきである。

二 T'子及びU'子の各証言

1  T'子の証言内容

T'子は、本件当時は会社員として勤務していた二〇歳の独身女性で、被告人やE子と同じく日野町大字豊田地区に居住していた。同人の証言内容は、次のとおりである。

「昭和五九年一二月二八日午後七時三〇分ころから、日野町三十坪地区の友人のU'子方で、友人四人による忘年会を開く予定であった。自分は、予定より少し遅れて午後七時四〇分か四五分ころに、自宅を自動車で出発し、五ないし六分でU'子方に到着した。自宅を出発してすぐの『戊原』前の十字路交差点を北から東に向けて左折する直前、被告人が正面を向いて立っているのを見た。被告人は、反対車線の交差点の直近(南詰付近)におり、後方には軽トラックのような白っぽい自動車が駐車されていた。このとき、自分の車の前照灯が上向きか下向きかは覚えていない。被告人の姿を見たとき、自車と被告人との距離は五ないし六メートル位であったと思う。被告人とは自宅が近所で、それまでも何度も顔を見たことがあった。」

2  U'子の証言内容

「忘年会は、昭和五九年一二月二八日午後七時三〇分から始まる予定であったが、実際は午後八時ころに開始した。忘年会の出席者は同級生の女子四名で、T'子は自宅に一泊して、翌日は出勤したと記憶している。忘年会の日が一二月二八日であったことは、被害者が失踪したことを二日後位に聞き、忘年会の日と同じ日であることが印象的であったからよく覚えている。昭和六〇年四月ころ、警察官が自宅に、本件に関係すると思われることで何か知っていることはないかと聞き込みに来た際、T'子は同席しており、『丁野自動車付近で被告人を見た。』と自発的に供述していた。」

3(一)  前記各証言によれば、U'子方で忘年会が開かれた日時については開催したU'子も参加したT'子も昭和五九年一二月二八日夜であったと記憶しており、しかも同女らは被害者が失踪した日と忘年会の日が一致することからこの日付を記憶していたものであって、この日時に関する部分の信用性は高いと思われる。そして、T'子方からU'子方に向かうには、当然、前記の「戊原」前の十字路交差点を通ることになるから、T'子が、当日の午後七時四〇分ないし四五分ころの数分後に同所を自動車で通過していることは疑いがない。

(二) T'子は、その時点で被告人を目撃したというのであるが、当時は夜間であり、同女は自動車運転中であったことから、目撃したのは一瞬に限られるという事情はあるものの、当然自動車は前照灯を点けていたものであるし、同女は以前から被告人を見知っており、しかも比較的近い距離から真正面像を見たというのであるから、別人と見間違えるという可能性はまずないものと思われる。

(三) 平成二年一月二三日実施の検証調書によれば、T'子が被告人を目撃したという日野町《番地省略》「戊原」ホルモン店前交差点において、普通乗用自動車内から上下ともに暗色系統の服装をした人物を佇立させて顔の識別が可能であるかの検証を行ったところ、自動車の前照灯が上向きのときは人物との距離が一五メートル以内では人物の顔がよく見え、下向きの場合でも距離が五メートルであれば人物の顔がよく見えるとされているところ、同女は被告人との距離は五ないし六メートル程度であったと供述しており、この距離は正確ではないにせよ、同女としては比較的被告人と接近したという印象を持っていたことは間違いはなく、たとえ前照灯が下向きであったとしても、十分に識別は可能であったと思われる。

4(一)  これに対して、弁護人は、T'子が被告人を目撃した状況は、距離、明暗、時間のすべての観点からみても劣悪な条件下におけるものであり、その正確性には疑問があるとし、更に、同女は忘年会の翌日は出勤しなかったと供述しているが、同女の当時の勤務先のタイムカード(昭和六三年押第四〇号の六)によれば、翌日の一二月二九日も出勤したことになっており、忘年会が開催されたのは、昭和五九年一二月二八日ではなかった可能性が高いと主張する。

(二) 前者については、前記のとおり、T'子は、以前から被告人を見知っていたものであるから、かかる条件下でも十分識別は可能と思われる。

すなわち、よく見知った者を識別する場合、単にその顔貌のみならず、体型、姿勢、服装(着こなし)等の種々の要素を総合して行うため、面識のない者を識別する場合に比べてはるかに容易で確実である。一般に、遠方あるいは後方から等の悪条件下でも知人を見分けることができるのは、この理による。

本件についてみると、T'子が被告人を見かけたのは夜間で一瞬とはいえ、自動車の前照灯に照らされた正面の全身像を見て、顔貌、体型、姿勢等から被告人と判断したと考えられ、その精度は高いというべきであろう。同女が「ぱっと見て被告人だとわかった。」という趣旨の供述をしていることは、このあたりの事情を同女なりの言葉で表現したものと思われる。

(三) もっとも、警察官がT'子から目撃情報を聞き込んだ昭和六〇年四月ころには、既に被告人がE子の捜索や葬儀にも参加しないため、被告人が本件の犯人ではないかとの噂が流布していたことが窺われ、T'子も当然このような噂を耳にしたであろうから、それによって予断を抱いた可能性も考慮する必要がある。

しかし、U'子の証言によれば、T'子は警察官に対して被告人を目撃したことを供述した後、同じ地区に住む被告人に不利な供述をしたことについて、家人や同地区の人から非難され、相当悩んでいたことが認められるところ、このような精神的圧力を加えられれば自己の記憶に自信がなくなる場合が多数であると思われるのに、同女は目撃したのが被告人であることを断定的に供述しており、これは予断を受ける以前に、相当に強い印象があり、記憶に自信があるからであると思われる。

(四) また、後者の点についても、忘年会の日付は証人U'子の供述により裏付けられているところである。

T'子は、忘年会の翌日に出勤したことを忘れていたものと思われるのであるが、出勤は日常的な事柄であり、これを記憶していなかったからといって、目撃時と証言時までの時間の経過によれば、格別不審ではない。

5  以上によれば、被告人は、昭和五九年一二月二八日午後七時四〇分ないし四五分ころの数分後、E子方店舗のすぐ近くである「戊原」ホルモン店前交差点南詰付近の道路を南から北に向けて歩行していたことが認められる。また、T'子の証言によれば、被告人の後方(すなわち南側)に軽トラックのような白っぽい自動車があったとされており、これは当時の被告人使用車両と一致するから、被告人は同所付近まで軽トラックで赴き、駐車した後、徒歩でいずれかへ向かっていたと考えるべきである。

ところで、右交差点付近で被告人が赴く先としては、E子方店舗以外には考え難い。したがって、T'子が被告人を目撃した時間の直後に、被告人がE子方店舗を訪れていた可能性は高い。

三 P'子の証言について

1  P'子は、E子方とは町道を隔てて居住する一家の主婦であり、昭和五九年一二月二八日夜のE子方店舗の状況について次のように証言する。

「当夜、自宅の台所に立ち、食器などの洗い物をしていたときに、同女方店舗から、切れ切れにE子の声を聞いた。同女の声の内容のうち、『神さん信心する』『珍しいなあ』『お加持する』『鬼みたいやな』という言葉を記憶している。誰かを相手にしているようであったが、相手の声は聞こえなかった。そのとき、窓ガラスごしに店舗畳間が点灯しているのを見た。その時間は、自宅で家族が午後八時から放映されるテレビのプロレス番組を見ていたから、午後八時ころであると思う。異常な物音は聞いていない。」

2(一)  同証人の供述によれば、P'子は、E子の死体が発見される以前に、同女の行方を探していた警察官の聞き込みに応じて、参考になればとの思いから、当日夜の同女方の様子として上記のような供述をしていることが認められ、同女は同女とも被告人とも特段の利害関係を有していないことからみても、当時の記憶のままを公判でも供述しているものと考えられる。

(二) なお、平成元年五月一九日実施の検証調書では、被害者方店舗での会話がP'子の自宅の台所において聴取可能かについては、「人声が僅かに聞き取れたが、言語は、不明瞭であった。」とされ、平成二年一月二三日実施の検証調書によれば、同じ問題についてE子方店舗及びP'子方台所の双方の窓を開放した状態でなければ、E子方店舗内での女性(四八歳の電話交換手及び五〇歳の被告人の義妹)の会話の声を聴取することはできないとされている。

(三) しかし、前記証人P'子は「E子は、同居している叔母のI子の耳が遠かったことから、日頃から声が大きかった。」と証言しており、前記平成二年一月二三日実施の検証に際してGが「母の声はもっと大きい。」と発言していることなどからすれば、E子は、一般の女性よりは大きな声で話していたことが窺われる。

また、前述のとおり、証人P'子は、E子の会話相手の声は聞こえず、同女の声のみ切れ切れに聞こえたとしているのであり、同女と何者かが会話をしていたものの、声の大きな同女の発言のみがP'子の耳に達したと考えれば、ごく自然に理解ができる。

(四) ただし、本件当時が冬期で、E子方もP'子方も窓を開放していたとは考え難く、前記各検証の結果からみても、E子方店舗とP'子方との間では、人声の聴取がかなり困難であることは率直に認めざるを得ないところであり、しかも、P'子は台所で洗い物の最中であったというから、当然それに付随する騒音もあったと思われ、人声を聴き取る条件はあまり良くなかったというべきである。

P'子にとって、E子の声は聞き慣れたものであったから、同女の声とそれ以外の者の声を聞き間違えることはあり得ないにせよ、同女の発言がはっきりと聞き取れるだけの条件が整っていたとはいえず、P'子が聞き取り、記憶していた言葉の内容が正確か否かには、かなり疑問の余地があるといわねばならない。

3  検察官は、P'子が聞き取ったE子の発言のうち、「神さん信心する」「お加持する」という言葉は特異であり、同女自身は特定の宗教を信仰していなかったのであるから、会話の相手は宗教関係者であり、被告人が乙野教の熱心な信者で、「お浄め」ができる立場にあったことを考慮すれば、このE子の発言も本件の犯人と被告人とを結び付ける重要な要素になると主張する。

しかし、前記のとおり、E子の発言を正確にP'子が聞き取り、記憶したかについてはやや疑問が残るところである。また、日本人は、特定の宗教を信仰しているわけではなくとも、冠婚葬祭を仏教や神道の様式で執り行い、折りにふれ寺社に参詣するなどしている者が多く、家中に仏壇を設けて、先祖や亡き家族への祈りを絶やさないようにしている者も少なくないなど、その日常生活には宗教的色彩が大なり小なり反映されているのであって、特に高齢者の場合はその傾向が著しい。これによれば、たとえE子の発言の中に「神さん信心する」「お加持する」との言葉があったとしても、同女は夫に先立たれ、自身が亡夫等の供養を担っていた身であることを考えれば、自分自身に関する発言である可能性も十分にあり、この言葉をもって会話相手が宗教関係者であると速断するのは、いささか軽率との念を抱かざるを得ない。

4  以上によれば、P'子の証言内容は、被告人を直接的に本件犯行と結び付けるものになるとは考え難い。

しかし、右証言内容が示唆する事柄の中には重要な事項も含まれる。

まず、第一に、右証言によって、E子が少なくとも昭和五九年一二月二八日午後八時ころまでは生存していたことが確認できる。

次に、右の時間帯に同女方店舗に訪問者があったか電話が掛かったものと認めることができる。

ところで、二項で認定したとおり、T'子の証言によれば、同日午後七時四〇分ないし四五分の数分後に、E子方店舗にほど近い交差点に被告人がいた事実を認めることができ、被告人はこの後右店舗に赴いた可能性が高いのであるが、P'子の証言によれば、期せずしてこれに符合する時間帯に右店舗に訪問者があった可能性が高いのである。

したがって、P'子がE子の声を聞いた時間に被告人が同女方店舗を訪れていた可能性は一層大きくなる。

5  なお、この点について、弁護人は、

①  P'子がE子の声を聴いたという時、P'子は帰宅した夫の弁当箱を洗っていたとされるところ、証人Pの供述では、P'子の夫M"は、午後七時の前後ころ一旦帰宅して弁当箱を置いてから、再び家を出てE子方店舗にいたPに合流したことが認められるから、P'子が弁当箱を洗っていたのはこのころと考えるべきである。

②  証人Pの供述によれば、PがE子方店舗にいたとき、他から電話がかかったことがあったので、P'子が聴いたE子の声は、この電話に応答するものである、とも主張する。

しかし、弁護人の右主張は、P'子が夫から弁当箱を受け取るや、すぐにこれを洗ったことを前提とするものであるが、証人P'子は、夫が弁当箱を置いてから洗うまでの間の時間についての質問に対し、「ちょっとわかりませんけど、そんなにかかっていないと思いますけど。」「はい、帰ってきてすぐ洗ったと思います。」というように、記憶があまり定かでないことを前置きして返答していることが窺える。

これに対して、E子の声を聴いたとき、家族がプロレス番組を見ていたことはかなり断定的に供述しており、この点については、確信があるものと考えられる。

これらによれば、同女が弁当箱を受け取ったのは午後七時の前後であったとしても、これを洗ったのはプロレス番組が始まった後のことと考えるのが相当であり、この間同女が弁当箱を放置していたとしても格別不審ではない。

よって、弁護人の主張は、前提を欠くというべきである。

四 被害者方店舗の座り机の引き出し内にあった両面鏡から被告人の指紋が検出されたこと

1  関係証拠を総合すると、次の各事実を認めることができる。

(一)  昭和六〇年一月五日、E子方店舗の実況見分と同時に鑑識活動が行われ、合計八三個の指掌紋が採取され、翌六日県警本部刑事部鑑識課に送付された。そのうち、四四個は不鮮明等の理由で対照不能であり、対照可能な三五個の指紋等が、E子、G、V'、W'、X'(右四名はいずれも被害者の親族)及び被告人の六名の指紋等に一致し、残った四個は対照用指紋等提供者一〇二名のいずれの指掌紋とも一致しなかった。

被告人の指紋が検出されたのは、店舗畳間の北側に置いてあった木製座り机の左側引き出し内にあった丸鏡(両面鏡 昭和六三年押第四〇号の三)からであり、一方の面の縁に近い部分に右手示指及び右手中指の指紋が、他方の面のやはり縁に近い部分に右手拇指の指絞がそれぞれ印象されていた。(甲一六ないし一九、一二七、一二八)

(二)  丸鏡に印象されていた被告人の指絞のうち、右手示指指絞と右手中指指絞は位置関係からみて同時に印象されたものではないが、右手示指指絞と右手拇指指紋は同時に印象されたものであり、被告人がこの鏡の縁に近い部分を少なくとも右手の拇指と示指を使って持ったことがあると認められる(甲一九、一〇九)。

(三)  昭和六〇年一月五日当時、E子方店舗内にあった鏡は三個で、壁に掛ける鏡(長方形型)、裏面皮張りの片面鏡、そして前記丸鏡であって、同女が失踪する直前もこの三個が存在していたと窺われる(甲一六、証人H子 第一回)。

右丸鏡は、本来金具により台に固定され、回転式の両面鏡として使用されていたものであるが、相当以前に金具がとれて、鏡部分のみが保管されていたものである。現時点では、鏡の枠の部分とガラスの部分がはずれかけている。

同女は、髪の手入れをするためなどに片面鏡を使い、S(精神発達遅滞者で、店舗に毎日出入りして、E子のために細かい買い物をするなど、使い走りをしていた。)の髭を剃ってやる際などには壁に掛けた鏡を利用していたが、前記丸鏡は古く、映りも悪いため、E子は失踪直前は利用していなかった(証人H子 第一回)。

(四)  昭和六〇年一月五日の時点では、E子方店舗畳間の座り机の左側引き出し内には、前記丸鏡のほか、櫛、ゴム紐、ボールペン等が在中しており、右側引き出しにはノート、伝票類が在中していた(甲一六)。

昭和五九年一二月二九日から前記実況見分時までの間に、同女方店舗には同女を捜索するために多数人が出入りし、親族らが店舗内の物を片づけるなどしたが、店舗畳間のタンス、小型ロッカー、座り机の引き出し内等については、被害品確認のために開けてみたものの、中の物品を取り出すことはなかった(証人G 第一回)。

E子は、生前、鏡や裁縫道具などを出し入れするために右座り机の引き出しを開け閉めしていたが、店員のH子は、酒のラベルの点数券を入れるため以外には引き出しに触れることはなく、E子やH子が客に引き出しを開けさせることはなかった(証人H子 第一回)。

2  以上の事実を前提として、被告人の指紋が前記丸鏡から検出されたことの意味を考える。

(一)  右丸鏡は、本来台付きであったものが台が失われ、鏡部分のみ残り、しかも枠からガラスが外れかけているもので、映りも悪く、廃物といっても過言ではない。

そして、E子が日常に使用していたものではなく、廃棄処分の手間をいとうたか、あるいは廃物となっても愛着があったため等の理由で放置されていたものと考えられる。

(二)  右鏡は、昭和六〇年一月五日時点では、同女方店舗畳間の座り机の左の引き出し内にあったのであるが、同女失踪後、親族らが引き出し内の内容物を移し変えた形跡はなく、また、右鏡が本来不要物であることなどを併せ考えると、昭和五九年一二月二八日の時点においても座り机の引き出し内に保管されていたと考えるのが相当である。

(三)  ところで、店員であるH子もあまりこの机の引き出しを触ることはないとのことであるから、単なる壺入り客にすぎなかった被告人が客として来店していた最中にこの引き出しの中を触ったことはまずなかったと思われる。

更に、前記のとおり、右丸鏡は本来廃物であるから、E子らが被告人に対して右鏡を手渡したということも考えられない。

(四)  被告人は、SがE子に髭を剃ってもらっているのを見て、自分の髭の伸び具合を見ようと同女から鏡を見せてもらったことがあると弁解するが、その鏡が前記丸鏡であったかについては、肯定する旨の供述をしたり(第三回、三七回公判)否定して細長い鏡であったと言う(第六五回公判)など一貫しておらず、その時期もはっきりしないなどあいまいな内容といわざるを得ない。仮に、被告人の言うとおり、E子から鏡を借りたことがあったとしても、前記丸鏡はもはや映りも悪い廃物であり、これを用いてSの髭を剃っていたことも窺われない以上、被告人に手渡したのが丸鏡でないことは確かと思われる。

(五)  なお、弁護人は、被告人が、公判において、自分が丸鏡を借りた際には枠(台の意味か?)があったと思う旨述べている(第三回公判)ことは、過去に被告人が丸鏡を触ったことがある証左であるというが、右丸鏡が本来台付であったことは、右鏡の構造や金具取り付けのための穴が開いている状況を見れば、誰にでもすぐ了解できることであり、弁護人の主張はこじつけに過ぎない。

(六)  このように考えれば、前記丸鏡に被告人の指紋が付着していたことは、被告人が、店舗畳間に上がり込み、E子らの了解を得ることなく、座り机の引き出しを開けて、右鏡を持ったことがあると示していると思われる。これは、被告人によって、座り机の引き出し内に物色行為が行われたことを強く示唆するものである。

また、その時期については、鏡上の指紋は比較的よく保存されるとはいえ、被告人の指紋が他者の指紋等によりつぶれておらず、比較的明瞭に残っていることによれば、昭和六〇年一月五日に比較的近接した時点であると考えるのが相当である。

3(一)  これに対して、弁護人は、まず、丸鏡からの指紋採取を行ったのは、本来別の部屋の鑑識活動を担当していたU警部補であり、更に当時、Gがこの座り机で書類の整理をしていたとされる(証人U)等、当該指紋が本当に昭和六〇年一月五日の実況見分時に採取されたか疑問があると主張するのであるが、先に自分の受け持ち範囲の鑑識活動を終わった者が他の者の手伝いをするがごときは、ごく普通のことであるし、実況見分の立会人でもあるGが、養母の家屋内で自由に行動することが許されていても別段異とするには当たらない。

そして、未だE子の生死さえ判明せず、被告人が本件の被疑者として浮上するはるか以前に作成された昭和六〇年一月一八日付実況見分調書(甲一六)及び同月六日付鑑識処理票謄本(甲一七)にも、この丸鏡は座り机の左引き出し内にあり、右鏡から若干の指紋が検出されたことがはっきりと記載されているのであり、弁護人のように、この指紋が後日警察の手によってねつ造されたものであると疑うのは、うがち過ぎた見方である。

(二)(1) 次に、弁護人は、前記丸鏡から被告人の指紋が検出されたことを認めるとしても、右鏡が移動可能な手回り品であることに鑑みれば、犯行以外の機会に指絞が付着する可能性も十分あり、犯行を裏付ける証拠としての価値は低く、仮に指紋が被告人の物色によって付着したというのなら、右鏡以外から被告人の指紋が発見されないのは不自然であると主張する。

(2) まず、前者の点については、本来右丸鏡が移動可能であることは認め得るとしても、前述のとおり既に手回り品としての効用を喪失していたものであって、現実的には座り机の引き出し内に放置されていたと考えるべきであり、E子らが客として来店した被告人に、映りが悪く、台がなく、枠からも外れかけている鏡を手渡すはずもなく、弁護人の主張は失当であろう。

(3) 更に、後者の点については、指紋が検出される、しないを左右する要素は多数あり、特に、印象するときの力、時間、印象される物体の表面の性質、印象者の分泌物の質及び量、印象後の保存の条件等が大きく影響するところ、本件においては、前記のとおりE子方には木製の家具や古い物品等、そもそも指紋が印象されにくい物体が多く、同女の失踪の判明後、捜索等のために多数人が出入りして、親族が店舗内の整理をするなど、印象された指紋の保存に全く配慮されていなかったことが認められる。

そして、現在の警察の実務においては、指紋の対照には一二点法が用いられているため、対照指紋と複数の共通の特徴点が見いだされても一二点に至らなければ、対照不能と扱われるという問題もある。

本件においては、E子方で採取された指紋等のうち、過半数が対照不能となっており、日常店舗に出入りしているはずのH子の指紋さえ検出されておらず、この事実は、前記のような印象される物体の条件の悪さや印象後の保存状況の悪さを如実に語っている。

(4) したがって、たまたま前記丸鏡にしか被告人の指紋が残っていなかったとしても、被告人が店舗内を物色したこととの間に矛盾は生じず、むしろ当然のことと考えられる。

よって、弁護人の主張はいずれも採用することはできない。

五 被害者の着衣に付着していた微物と被告人との関係

1  関係証拠を総合すると次の各事実を認めることができる。

(一)  昭和六〇年一月一九日にE子の死体が発見された直後、死体が身につけていた着衣の付着物について鑑識活動が行われたが、このときは肉眼で見える髪、皮膚、繊維、塗料、土砂等を対象としており、その中からは、特段被告人との結びつきを示す資科は発見されなかった(証人Y')。

その後、右着衣は、密封されて警察署内で保管されていた。

(二)  B'警部が捜査主任官に着任した昭和六一年三月以降、再び証拠関係を精査することになり、死体の着衣の付着物を微細にわたって検討することになった(証人B'第一回)。

そこで、右着衣をハトロン紙上に広げ、アセテート粘着膜を押し当てて軽く上からたたくという方法により、右着衣に付着していたほこりの類を採取し、分析したところ、金粉様のものや赤や青の塗料片類が多数含まれることが判明した。

その上で、E子方のほこり、同女方店舗の従業員H子の着衣から採取した微物、被告人の本件当時の勤務先であった工場の作業着から採取した微物などと比較検討した結果、金粉様のものや赤や青の塗料片類は酒のラベルに由来するものであって、被告人の勤務先の作業着の微物と特に一致するものはなかった(証人Y')。

(三)  昭和六一年夏ころ、再び死体の着衣のうち、下着等内側に着ていたものを除き、これらを粘着膜の上に重ね、上から掌で強くたたき出すという方法で、微物を徹底採取したところ、前記のような金粉等に加えてごく微量の鉄片や鉄の溶滓粒が検出された。右の溶滓粒は、直径〇・五ミリメートル以下の球状をしていた(証人Y'、甲一〇一、一〇二)。

これと並行して、E子方から採取されたほこり、同女方に脱ぎ捨ててあった同女の着衣から採取された微物、同女の近隣の居宅から採取されたほこり、被告人の義母であるN"子方から採取されたほこり、被告人の本件当時の勤務先であった工場の作業着から採取した微物、右工場内の被告人が作業中通行していたと思われる場所から採取したほこり等にも同様の鉄の溶滓粒が検出されないかを検討したところ、E子方店舗、N"子方及び被告人の勤務先であった工場内から採取したほこりの内に類似した鉄球が含まれることが判明した(証人Y'、甲八四、八六、八八、九〇)。

(四)  滋賀県警察本部刑事部鑑識課では、以上のような結果をふまえて、乙川株式会社研究開発部に対して、死体の着衣に付着していた鉄の溶滓粒とN"子方及び被告人の勤務先であった工場から採取したほこりの中の鉄球の異同識別を依頼した(証人Y')。

しかし、死体の着衣に付着していた溶滓粒があまりにも微量で、しかも表面が汚染されていたため、定量分析ができず、乙川株式会社では異同識別は困難と判断した。

そこで、同社において、形態分析と定性分析が行われたが、その結果によれば、これら三か所から採取された鉄の溶滓粒はいずれも類似しているという結論が出された。(証人Y'、同Z'、甲九三ないし九五)

(五)  昭和六三年三月九日に被告人が任意同行の上で取調を受けるようになったのと並行して被告人方への捜索が行われ、作業着を押収したり、屋内のほこりを採取したりして、これらの中の微物中にも同種の鉄の溶滓粒が含まれることが判明した(証人Y'、同Z'、甲九八、一〇〇)。

2(一)  これらによれば、死体の着衣に付着していた微物の中に含まれていた鉄の溶滓粒は、被告人が当時勤務していた工場内や被告人方、被告人の義母宅のほこりに含まれていた鉄の溶滓粒と類似するということはできる。

(二) しかし、前記乙川株式会社研究開発部研究室の副主幹研究員である証人Z'の供述によれば、これが同一といえるためには、定量分析や検証テストを経る必要があり、本件では前記の理由で定性分析と形態分析しかなされていない以上、似ている、という以上の結論を出すことはできない。

(三) また、鉄の溶滓粒は溶接、グラインダー作業、製鉄、鋳造等、金属を扱う工作場所で一般的に発生する(証人Y')ものであって、必ずしも珍奇ということはできない上、E子方の近くには丁野自動車という自動車工場があることから、ここにおいても鉄の溶滓粒が発生している可能性がある。

(四) 「微物の採取とX線マイクロアナライザー分析資料作成報告書」と題する書面(甲九八)によれば、E子方の店舗部分だけでなく奥六畳間でも同様の鉄の溶滓粒が発見されていることが認められ、これによれば、鉄の溶滓粒は犯人が持ち込んだ物ではなく、そもそも日常的に同女方に存在していた高度の蓋然性があるといわねばならない。

これを確かめるためには、死体の着衣のうち、犯人と接触することがなかったと思われる下着部分や、同様にE子が自宅に脱ぎ捨てており犯人が触っていないと思われる着衣について、昭和六一年夏に行われたのと同様の徹底した微物の採取を行い、果たして同種の溶滓粒が検出されるか(検出されれば、犯人がこの溶滓粒は持ち込んだ可能性はほぼ否定されるが、検出されなければ、犯人と溶滓粒の結びつきを推測できる。)を見ればよいかもしれないが、証人Y'の供述によれば、死体の下着や脱ぎ捨てられた着衣については、そこまで徹底した微物採取は行われていないと認められ、この点は確認ができない。

(五) 更に、仮に、死体の着衣中の溶滓粒と被告人の勤務先や被告人方自宅の溶滓粒が同種であるとしても、被告人の勤務先や被告人方から微物の採取がなされたのは一年ないし三年以上後のことであり、果たしてこれがどれほどの証拠価値を有するかについても疑問の余地がある。

(六) 以上によれば、いずれの観点からしても、死体の着衣に付着していた微物と被告人との結びつきは不明というほかはなく、この点の証拠価値はないといわざるを得ない。

六 手首の結束方法

1  被害者の遺体は発見当時、手首が白色ポリプロピレン製紐で結束されており、その結束方法は一般に精肉店で精肉を竹の皮等で包んだものを結束するのと類似した方法(紐を交差させる回数が異なる)であって、被告人は長く食肉さばき職人として稼働し、精肉店にも勤務していて、この包の結束方法を利用していた(証人A")こと等も、被告人と犯人を結び付ける一つの要素であると検察官は主張する。

しかし、既述のとおり、この結束方法は、たとえ精肉店独特の方法とは言い得るとしても、ある程度の年輩者で肉包を目にしたことのある者であればかなりなじみのある方法であること、日野町周辺には食肉さばき職人や精肉店店員が多く(証人A")、このような結束方法を身につけたものが被告人以外にも多数いたと窺われることによれば、それほど決定的な事実とはいえない。

2(一)  被告人は、昭和六三年三月二九日に頸部及び手首の紐の結束の再現見分を行っている(甲七〇)が、実際の手首の結束は、交差した二本の紐をかみ合わせて反対側に折り返し、その一方の端を手首に回した紐の下に差し込む形であったが、被告人が再現した形は、交差した紐の一方を他方に左巻に一回転させ、巻き付けた方の端を手首に回した紐の下に差し込む形であり、結び目を作らない点や、紐の一端の始末の仕方では一致しているが、紐の交差部分の扱いにおいてやや異なる点が認められる。

(二) 被告人は、この再現見分につき、「F'刑事から、肉の紐の結び方はどういう風にするのか。」と言われて再現して見せたものであると弁解する(第三五回公判)。

しかし、被告人が再現して見せた結束方法は、交差した紐をねじることなく、一方を他方に一回転させたという点で、一般の肉包の結束方法とは明らかに異なるものであり、被告人の弁解は信用できない。むしろ、実際の死体の手首の結束方法とは、微妙に異なっているにもかかわらず、これを受け入れて実況見分調書が作成されていることからみても、再現の任意性に配慮していたことが窺えるのである。

(三) そして、犯行から再現まで三年以上が経過していることによれば、真犯人であったとしても、微細な間違いをすることは不思議ではなく、むしろ、任意の再現であるにもかかわらず、被告人がほぼ類似の結束方法を再現できたことは、被告人と犯人とを結び付ける一要素になると思われる。

七 引当捜査の結果

被告人の勾留期間中、被告人に対する取調と並行して、被害品の手提金庫発見現場、死体発見現場等への被告人の引当捜査や、被害者方店舗内や死体発見現場等での犯行再現の実況見分などの捜査が警察によって実施されている(甲二四、六八ないし七三)。この内容は、概ね被告人の自白調書の内容を現地等で確認したというものになっているが、昭和六三年三月二一日に実施された手提げ金庫発見現場への引当捜査及び同月二九日に実施された死体発見現場への引当捜査については、それにとどまらず、重要な意味が含まれていると考えられるので、以下検討を加える。

1  手提金庫発見現場への引当捜査

(一)  引当捜査が行われるまでの経緯及び当日の実施状況

関係証拠を総合すると次の各事実を認めることができる。

(1) 被告人の逮捕の以前は、警察官らは、手提金庫発見現場に至る経路は二つあると考えており、その一つは甲山りんご園経由の経路ともう一つは県道石原八日市線(通称野出道)から山林内の踏み分け道を東進する経路であり(別紙図面四)、後者は山林内を徒歩で通る必要があるが、前者は現場近くまで自動車で進入できることから、犯人は前者を通った可能性が高いと考えていた(証人O'、E')。

(2) 昭和六三年三月上旬、警察官らから被告人を逮捕したいとの相談を受けたE'検事は、その当時の本件の記録を精査すると同時に、E子方店舗、死体発見現場及び手提金庫発見現場を事実上訪れて見分したが、その中で、手提金庫発見現場は各現場の中で最も特定が困難であり、犯人でなければ特定できない場所であるとの印象を抱き、被告人が自発的に右場所まで案内できるかを注目した。

同検事は、警察官らに対し、取調時は、金庫発見現場へ至る経路について詳しく聞くよう指示するとともに、同現場へ被告人を引き当てる捜査に自ら同行して、被告人が犯人か否かの心証をとろうとした(証人E')。

(3) 同年三月一三日、被告人は大津地方検察庁へ身柄付きで送致された。

その時点までの警察官の取調において、被告人は、被害者方から金庫を奪った後、石原山山中で金庫を破壊してその場に放置した、と供述していたが、金庫発見現場に至る経路については、警察官らが当初予想した二つと全くことなる経路を説明し、その旨はE'検事まで報告されていた。

同検事は、弁解録取に続いて、被告人の取調を行ったが、その中で被告人は山中で金庫を破壊するに至る経路については、「軽トラックで日野駅方向に走り、農免道路を越え、野出方向に走って、途中で車を止めて、道路から田のあぜを通り、山へ上がったところで金庫を開けた。」と供述したため、その旨を供述調書(乙七)に記載したが、同検事は、被告人が説明する経路が本当に存在するのかについて不安を抱いた(証人E'、乙七)。

(4) 捜査主任官であったB'警部は、右現場への引当捜査の任意性を確保するため、被告人の取調に従事したことのないO'警部補を見分官に指名した。同人は、B'警部の上司であるB"刑事課長から、任意の引当だから、誘導はせず、被告人の前に出ることがないように注意を受けた。

引当には、見分官、補助者三名(縄持ち係、写真撮影係、記録係)のほかに、捜査主任官のB'警部、取調官のF'警部補、B"刑事課長、E'検事らが同行したが、F'警部補は被告人に近づかないように注意していた(証人B' 第一回、O'、E')。

(5) 被告人の引当は、広域農道と県道石原八日市線の合流地点から開始し、以後は被告人の指示説明に基づき、金庫発見現場まで至った。

被告人は、右合流地点から、県道石原八日市線を野出方向にしばらく車両を走行させるよう指示し、約五五〇メートル進行した地点で車両の停止を指示した。その後、徒歩で約一八・八メートル戻ってから、県道の東側の田圃の南側畦道を進み、その田の東側の急斜面を上って前ケ谷溜の堤防に上がり、堤防を南進して山林内に入った後は、獣道のような幅員約一メートルの山道を通って南東方向に約九〇メートル進み、甲賀桜谷線二一号鉄塔北側まで出た。

この途中、写真を撮影する等のために、見分官のO'警部補は何度か被告人を停止させたが、写真を撮る前に必ず「あとどちらに行くのか。」等と次の行く先方向を被告人に確認するように心掛けていた。また、写真を撮る場合以外は、被告人を常に先頭に立たせていた。なお、同行したE'検事、B'警部、F'警部補、B"刑事課長らは、O'警部補のやや後方を歩いていたが、見分に口を出すことはなかった。(証人O'、同E'、甲二四)。

(6) 被告人は、二一号鉄塔付近まで特に躊躇することはなく、淡々と経路を指示していたが、鉄塔から工事道をしばらく東進した地点(鉄塔から約五九・六メートルの地点)で立ち止まり、周囲を見回してから、北側の急勾配の下り坂を降り、松の木の根元を指示し、「ここで金庫を壊して捨てた。」と説明した。

O'警部補は、被告人に対し、「本当にここでよいのか。もっと別の場所を見てからでもよいからゆっくり考えなさい。」と声をかけたが、被告人の指示した場所は変わらなかった。右場所は、まさに金庫が発見された場所そのものであった。(証人O'、同E'、甲二四)

(7) 引当の様子を見ていたE'検事は、被告人が本件犯行の犯人に間違いないとの心証を抱いた。

引当捜査終了後、当日中に同検事は被告人の取調を行い、その中でも被告人が警察官らに教えられることなく、金庫発見現場を案内したことを確認し、その旨の供述調書を作成した(証人E'、乙九)

(二)  検討

(1) 以上の各事実を総合すると、被告人は引当捜査時には、自発的に金庫発見現場まで案内し、結局被告人の指示した現場は正しい位置であったことが認められる。

(2) これに対して、弁護人らは、被告人の公判供述を前提として、被告人は取調警察官に教えられたヒントや見分官の巧みな誘導によって、金庫発見現場まで到達したのであると主張する。

すなわち、被告人は、公判においては、次のように供述している。「金庫発見現場へ行く前日(あるいは当日)に、F'刑事が『鉄塔もあるの。池もあるの。』と言っていたが、地図など見せてもらったことはない。当日は車中から鉄塔を探し、高圧線が見えたので、適当に車を止めるよう指示した。鉄塔を見ながら、見当をつけて畦道や崖を通って上がっていった。鉄塔の下に出てから高圧線の下を東に向いて歩いて行くと、道路の左側に雑草がきれいに刈り取られている場所があり、左側にため池が見えたので、そこから斜面を降りて行き、適当な場所を指示した。警察官は、『どっちや。こっちちゃうんけ。』等と迷わすように声をかけていた。その警察官は自分の後ろにいたので、顔は見ていない。」(三六、三七、六五、六六回公判)

(3) しかし、この被告人の供述内容は一見して不自然である。もし、警察官らが、なんとしても被告人が正しい場所を指示するよう仕向けたいと考えていたならば、「鉄塔」と「池」などという迂遠なヒントを与えたり、わざわざ金庫発見現場に至る降り口の下草を刈るなどの面倒なことをするまでもなく、見分官が被告人に対して行き先を指示すれば足ることであり、その方がはるかに確実である。

また、見分官自身は任意の引当をなすつもりであったが、F'刑事が独断で金庫発見場所を教えたのであると仮定しても、そうならば地図等を用いて詳細に経路を教えなければ、被告人が道を誤る危険が大きく、単に二つのヒントを与えただけでは、いかにも手ぬるいし、その場合には、誰が下草を刈り取るなどしたのかという疑問も生じる。

また、ヒントを頼りに金庫発見現場の周辺までの案内が仮に可能であったとしても、被告人の指示した木の根元はまさに金庫が発見された場所そのものであり、なぜこのように正しく指示できたかについては、説得力ある説明はなんら加えられていない。

(4) 更に、被告人の供述は、他の証拠に反する部分も認められる。すなわち、昭和六三年三月二六日付実況見分調書(甲二四)添付写真14は、被告人が工事道から金庫発見の地点への降り口に立っている写真であるが、その足元付近を見れば、周囲と比べて若干下草がまばらになっており、人一人が降りることができるようにはなっているが、下草が刈り取られている状況は窺えない。

また、平成五年六月一〇日実施の検証調書(職権一三)では、右の降り口及び金庫発見現場のいずれからも、前ケ谷溜を見通すことはできないことが認められるから、この点で被告人の弁解は破綻している。また、被告人が引当を開始した地点からは、石原山方面には他の鉄塔が見えるのであって(甲二四写真1)、仮に「鉄塔」というだけのヒントを与えられていたならば、この直近の鉄塔こそ目印であるという印象を受けても当然であるのに、被告人はこの鉄塔には目もくれず、正しい現場まで到達したと認められるのである。

以上によれば、警察官のヒントに誘導されたという被告人の弁解は信用できず、被告人の弁解を前提とする弁護人らの主張もまた採用することはできない。

(5) これに比して、証人O'、E'らの供述する被告人の引当の状況は自然である。同証人らは、引当を被告人の任意のものとするために細心の注意を払ったことを供述しているのであるが、これは前記に認定した被告人の自白の任意性を確保するため、E'検事が積極的に警察官らの捜査を指揮し、警察官らにおいてもその指示内容をよく守っていたことに符合するものであり、十分に信用ができる。

(6) したがって、少なくとも、被告人が警察官に教えられることなく、任意に金庫発見場所を案内し、正しい場所を指示したことは動かし難い事実である。

(7) ここで、被告人が事件報道や近隣の噂により、警察官に教えられるまでもなく、金庫発見場所を知っていた可能性についても検討すべきである。捜査報告書(甲一八五)によれば、金庫が発見されたことは当時の新聞などで報道されていることが認められるが、いずれも場所の特定としては「同町内の山中」という程度であり、これによって、正確な金庫発見場所を特定することはできない。なお、当時のテレビ、ラジオのニュース番組の報道がどうであったかについては、証拠関係から知ることはできないが、新聞報道の内容から推測すれば、おそらく同程度の特定しかなされていなかったと考えるのが自然である。

本件が、被告人の居住する近隣で相当大きな噂になっていたことは想像に難くなく、被害者の死体の発見や、手提金庫の発見もおそらく近隣で噂されることもあったと考えられるが、証人E'の供述によれば、警察は、手提金庫の発見者やH子に対して発見場所を他人に漏らすことがないように注意を与えていたとのことであるし、たとえ何らかの経路である程度の情報が漏れていたとしても、正確な金庫発見場所が噂によって伝達されることはおよそ考えられない。

以上によれば、被告人が、警察以外から入手した情報により、金庫発見場所を知っていた可能性も皆無と思われる。

(9) 弁護人は、引当捜査の後に被告人が弁護人と接見した際に、被告人が正しい金庫発見場所を案内することはできなかったと強固に主張した事実を挙げて、被告人が金庫発見場所を知らなかった証左であると主張する。しかし、被告人がこのように弁護人に主張していた事実があるとしても、それは被告人が自己の記憶するところの金庫発見場所を案内しながら、見分官が「本当にここでよいのか。」等と声をかけたことから、場所を間違えてしまったと曲解したことや、当時から弁護人に対しては自分は無実であると訴えていた手前、正しい金庫発見場所を知っていたとは言えなかったことが原因であると思われ、これはむしろ、警察官らが引当の任意性確保に注意を払っていたことを示すだけであって、被告人が金庫発見場所を知らなかったことを意味するものではない。

(三)  結論

(1) これらを総合すれば、被告人は誰から教えられたわけでもないのに、金庫発見場所について正しい知識を有していたことが認められる。

(2) ただし、現場から手提金庫のダイヤル等が発見されなかったこと等に照らすと、弁護人が主張するとおり、犯人は、他所で手提金庫を破壊し、金目の物を抜き取った後、山中に壊した金庫を運び、金庫発見現場に捨てたと見る余地もないではないと考えられる。

(3) 以上のような疑問は残るにせよ、被告人が金庫発見場所を知っていた事実自体は非常に重い。すなわち、被告人は、右場所について警察から教えられることもなく、他から情報を入手していたとも考えられない以上、この場所を知っていることは、少なくとも被告人が本件の被害にかかる手提金庫の投棄に関与していたと考えざるを得ない。

とすれば、右金庫はE子の殺害とほぼ同時期に奪取され、その後破壊されて投棄されたと考えられるのであるから、被告人は同女の殺害や金庫の奪取にも関与していると推測するのが最も自然であろう。

2  死体遺棄の再現状況と死体発見現場の引当

(一)  死体遺棄の再現見分が行われた状況

昭和六三年四月一日付犯罪捜査復命書(甲七三)及び証人C"の供述を総合すると次の各事実を認めることができる。

(1) 昭和六三年三月二九日に、被告人の指示に基づき、被害者方から死体を遺棄したという現場まで、そして被害者方から金庫を破壊した後に現金を数えたという場所までの引当見分が実施された。

C"警部補が見分官となり、縄持ち係、図面係、写真係等の五名の警察官らが補助者として参加したが、この際にもB'警部、F'警部補、B"刑事課長、E'検事らが同行した。

C"警部補は、見分の前日にB'警部補やB"刑事課長から任務分担等について指示を受け、その際、見分の任意性の確保に留意し、被告人の指示を受けた後に犯行再現の行為をさせるよう注意された。

(2) 死体遺棄現場までの引当見分は、捜査用車両三台及び軽トラック(本件当時被告人が乗用していたものと同種の自動車)を用意し、先頭の捜査用車両の後部座席に被告人と見分官が乗り込み、その他の車両はこれを追随するという形で行われた。

C"警部補は、見分に先だって被告人に供述拒否権を告知し、死体遺棄現場までどのような経路をたどったのかを、口頭であらまし聞き出し、「被告人の指示がなければ動かないから、そのつもりで指示してほしい。」と被告人に告げた。

E子方店舗から出発し、交差点に至るごとにC"警部補が被告人に行き先を聞いたが、被告人は椿野台造成地に到着するまでの間、行き先に迷うことはなかった。小井口地区の墓地のそばを車両で通過した際には、被告人はC"警部補に対し、「三年前は(墓地は)こんなにきれいではなかった。」と述べるなど、当時を思い出すように語っていた。(甲七三、証人C")

(3) 椿野台造成地に到着した後は、まず被告人に犯行当時自動車を停車させた位置や方向を指示させ、被告人の指示通り、同造成地の最奥部のT字型交差点に用意していた軽トラックを崖方向を向いて停車させた。そして、用意したマネキン人形を被害者の死体に見立てて、まず、右軽トラックの荷台に置き(頭の向き等は被告人の指示による)、被告人が被告人の死体を抱きかかえて運び、遺棄するまでの状況を再現した。

被告人は、運転席から荷台の右側の方に来て、人形を両腕にかかえたまま、軽トラック前方の右側の分譲地の草むらに入ったものの、「うわあ、大分に草が伸びて変わっているな。」とつぶやきながら周囲を見回していたので、C"警部補は、「ゆっくり考えて思い出せ。」等と声をかけた。その後、被告人は左側の分譲地に入り一ないし二歩ほど進んだが、「やっぱり右や。」と言いながら再び右の分譲地の草むらに分け入り、付近を見回した挙げ句、「刑事さん、ここですわ。」「山肌の欠けた、この木に見覚えがあります。」「このような状態で膝をついて、そのままだかえた(抱きかかえたの意か?)ような状態で、そっとここに降ろしました。」と指示した。右場所は、被害者の死体が発見されたのと同じ分譲地内であり、ほぼ同一の場所であった。(甲一との比較)

この間、同行していたF'警部補、B'警部、E'検事らは、被告人の様子を一〇メートルほど離れて見守り、見分に口を挟むことはなかった。

(4) 死体遺棄の再現が終了すると、再び被害者方店舗付近に戻り、丁野自動車の裏の通路から出発して、金庫を破壊した後、現金を数えた現場までの引当見分を開始した。

引当は前同様、被告人の指示により行われ、金庫を破壊するために一旦県道石原八日市線上に駐車した地点を経由して(石原山山中の金庫発見現場までの引当は省略)、被告人が金庫から奪取した現金を数えたという、町道川向線沿いの鉄骨平屋建て野小屋前の路上まで引当が行われた。

(二)  検討

(1) 前記認定に反して、弁護人らは、被告人の公判供述を前提として、被告人が死体遺棄の再現見分は警察官の誘導によるものであって、被告人が正しい死体発見現場を引当できたのは、警察官からの教示があったからであるという。

被告人の公判供述の要旨は、「被害者の死体が発見された場所は、新聞で見たか人づてに聞いたかで、小井口というところであって、それが鎌掛に行く途中にある場所であることは知っていた。死体遺棄の再現見分をした日は、自分が犯人でないことを分かってほしかったので、犯人ならば通るはずもないような繁華街を案内した。小井口の墓地を過ぎたところで、警察官らは勝手に車を止め、被害者の死体を遺棄した場所はどこかと聞いてきた。自分は、死体を捨てるならば山の方であろうと思い、人形を抱えて、左側の造成地に入って人形を降ろすと、警察官が『そんな所違うやろが。』というので、右側の造成地に入り、人形を降ろすと、F'刑事が『それは違うやろ。』と言って人形の頭の向きを変えた。」というものである。

この被告人の公判供述は一見すればかなりの具体性は認められる。しかし、当日の見分は、警察関係者だけではなく、E'検事も同行しているのであり、前述のとおり、同検事は被告人の供述の任意性の確保には神経をとがらせていたのであるから、被告人のいうように死体発見現場まで誘導したり、人形の向きを直すなどしたならば、それは同検事からは捜査手法の誤りとして厳しくとがめられるはずであり、そのような行為を警察官らがあからさまになすとは考えられない。

そして、それ以外に、警察官らが同検事にわからないよう、巧妙に被告人を誘導したというような事情は右供述からは窺われず、結局被告人の公判供述は不自然と思われる。

(2) 証人C"の供述によれば、死体遺棄の再現及び死体発見現場への引当はいずれも被告人の指示、説明に基づいて行われており、その上で被告人は被害者の死体が発見されたのとほぼ同一の位置を死体遺棄の地点として説明したことになる。右の引当状況に関する同証人の供述内容は、被告人の指示等を織り混ぜて、椿野台団地奥に至るまでの走行経過を具体的に説明しており、見分用車両を停止させて以後、死体発見現場の指示に至る経過についても、被告人の記憶再現の様子を詳細に述べ、その間、二、三度被告人に前記のように、ゆっくり思い出すように声をかけたことは認められるものの、同見分官が被告人に方向や地点を指示し、誘導したふしは認められない。

したがって、被告人は、警察官に教えられることなく、死体発見現場をほぼ正確に知っていたと認められ、しかも、その場所を指示するに当たっては、「山肌の欠けた、この木に見覚えがある。」と右場所を指示する理由を被告人なりに説明しているのである。

(3) もっとも、死体の発見に関しては、当時の報道等により、日野町小井口の椿野台団地の造成地の最奥部であることが一般に明らかにされており(写真も掲載されている 弁一の一、一の二、一の五等)、同土地は雑草が繁茂しているとはいえ、一応宅地として開発されたことがあり、周囲に民家がまばらにあるなど、金庫発見現場と比較すれば特定はでき易いといえる。しかし、報道写真によっても、現場へ行ったことのない者では、正確に場所を特定することは相当困難であり、ましてや近隣の噂によって正確な場所に関する情報が流布していたとも考えられない以上、被告人がほぼ正確に死体発見場所を指示したという事実は極めて重要と思われる。

(4) また、被告人の死体遺棄現場での再現時に、「大分変わっているな」と述べながら、周囲を見回していたというのも注目に値する。「変わっている」という表現は、当然、以前に右場所に来た際と比較して「変わっている」という意味であり、被告人にとって死体発見現場付近が既知の場所であることを窺わせる。

(5) 椿野台団地は、日野町役場から東南に約三キロメートルほど離れた新興住宅地で、入居者は約三〇世帯、一二〇人であるが、九割ほどは空き地であり(弁一の二)、造成された後、手入れされることなく、雑草等が繁茂するにまかせられた土地であって、昭和六〇年一月二三日付実況見分調書(甲一)と昭和六三年四月一日付犯罪捜査復命書(甲七三)のそれぞれの添付写真を見比べれば、被害者の死体が発見された当時と、引当見分がなされた当時では、雑草が繁茂している面積が拡大していることが窺われる。なお、平成五年六月一〇日に実施の検証調書によれば、右検証時には、死体発見現場付近には、周囲一面にすすき、いばら等が繁茂し、団地内道路や分譲地の見分けもつかない状態になっており、昭和六三年当時と比較しても近隣の様相は更に変化していたと認められる(職権一三)。

(6) 被告人が前記のとおり「変わっているな。」と発言したのは、いずれの時点と比較してであるかについては、再現見分の途中に明言しているわけではないが、当然その文脈から考えて被告人が被害者の死体を遺棄した時点であることは容易に想像がつくところである。この発言は、警察官に強制されたものでもなく、警察官の質問に対する返答ですらない、いわば被告人の独言に近いものであって、被告人の素直な心情が表されていると考えられる。

しかるに、被告人は、その中で自己がE子の死体を遺棄した犯人であることを前提とした発言をしていると考えられる。しかも、本件犯行当時と再現見分時とでは、周囲の状況が実際に変化しているのであり、被告人の「変わっている」という感想は客観的にも正しい。これは、被告人と犯人を結びつける有力な手がかりの一つとなる。

(7) もっとも、自白の信用性に対する検討中で述べたとおり、当日の見分のうち、死体を遺棄するまでの搬送経路については、果たして本当にこの経路を通って死体を遺棄したのか、また、そもそもE子方で同女を殺害して死体を遺棄したのかについては、疑問なしとしないところであり、見分が任意に行われたからといって、その内容をすべて真実とするのは早計であると思われる。

しかし、以上によれば、被告人は、誰からも教えられていないにもかかわらず、死体が発見された場所について正確な知識を有しており、犯人ならではと思われる発言を漏らすなどしているのであり、これは被告人がE子の殺害にかかわっていることを強く疑わせる要素となる。

八 事件発生後の被告人の行動

1  犯行翌日の行動

証人D"の供述によれば、昭和五九年一二月二九日の午後三時三〇分ないし午後四時ころ、同人が町の役員としてE子方店舗で未払代金の支払いに赴いたところ、年末の支払いや注文のために四人位の客が入れ替わり立ち替わり現れ、領収証を貰うのを待っている間に、被告人が同店舗を少し覗いて、「いっぱいやなあ。」と言って帰ったことが認められる。

これは、被告人が犯人であるとすれば、本件犯行が発覚したかを探りに来た行動とも考えられるが、そのような事情を前提としなければ、単に壺入りのために訪れたが、従業員のH子が他客の応対に追われており、なじみのE子の姿も見えないことから遠慮したともとることができ、右事実を重視するのは妥当ではない。

2  葬儀等の欠席

(一)  被告人は、E子に世話になったことを自認しており、同女の夫が死亡した際には香典を出しているにもかかわらず(乙一一)、同女の失踪が判明して、昭和五九年一二月三〇日に同地区内の有線放送で同女の捜索が呼びかけられ、総勢約五〇人がこれに参加した際にはこれに加わらず、その後同女の死体が発見されて、通夜や葬式が営まれた際もいずれも欠席しており(証人J、同D子、被告人の公判供述)、これは同女の夫が死亡した際と均衡を失している。

(二)  被告人は、E子の捜索や葬儀に参加しなかった理由について、娘の結婚の準備のため忙しかったからとか、日取りを知らなかったからと弁解するところ、確かに捜索活動については、年末の繁忙期に行われたものであるから、いかに親しいとはいえ単なる常連客の被告人が参加しなかったとしても不思議ではない。

(三)  しかし、通夜及び葬儀のいずれにも欠席したというのはやはり不自然である。当時、同女の失踪やその後の死体の発見は、さして広くはない同地区内ではもっぱらの噂になっていたことが窺われ、通夜及び葬儀のいずれの日程も知らなかったという被告人の弁解はにわかに信じ難い。

まして、被告人が自認するように、同女には世話になったことがあるのであらば、死体発見の報を聞けば、とりあえず近親者に一言悔やみを述べに赴くか、通夜あるいは葬儀のいずれかに時間を割いて出席するのが、被告人程度の年輩の、しかも郡部に住む日本人の通常の行動である。

通夜や葬儀への出席は、一時間もあれば済むのであって、娘の結婚を控えており忙しかったとの弁解は通用せず、なにゆえに被告人がこのように義理を欠く行動を採ったかについては不可解といわざるを得ない。

3  H子に対する言動

証人H子の供述(第八回、第九回)によれば、被告人は、E子の失踪が明らかになってからは、ほとんど同女方店舗に来店しなくなり、昭和六〇年春ころに、客として来店した際、H子が、被告人に来店しなかった理由や被害者の捜索に加わらなかった理由を尋ねるなどしたところ、被告人は、昭和五九年の暮れはずっと飲みにきておらず、一二月二八日の夜も仕事に行っていたというようなことを弁解し、その上で、H子に対して「人を罪に陥れるようなことを言うたらあかん。」などと述べたことが認められる。

この被告人の発言の趣旨は意味深長であり、被告人が当時H子らの発言に神経をとがらせていたことが窺えるのであるが、それ以上の事実を推認しようとすれば、被告人の性格等を掘り下げる必要があり、右事実も一応被告人が事件後とった不可解な言動の一としては考慮に値するが、それ以上に重視すべきではないと思われる。

九 被告人のアリバイ主張について

前項記載のとおり、被告人は、昭和五九年一二月二八日夜にE子方店舗を訪れていた可能性が大であると認められるのであるが、被告人は公判段階では一貫してこの点を否定し、アリバイを主張するので、このアリバイ主張及び被告人の同日ころの行動について検討を加える。

1  被告人が犯行当夜帰宅していないこと

証人D子は、昭和五九年一二月二八日夜の被告人の行動について、同日夜は被告人は帰宅せず、翌二九日午前八時三〇分ころになって帰宅した旨を供述している。

同女は被告人の妻で、現在も被告人の無実を信じている者であって、ことさら被告人に不利な供述をするはずもなく、昭和六〇年九月一七日及び昭和六三年三月一〇日の取調時にも、率直にこの事実を認めていた(甲一二〇)ことに照らせば、前記のとおり被告人が本件犯行当夜に帰宅しなかった事実は優に認められるところである。

被告人自身も、当日に帰宅しなかった事実自体は、公判で認めている。

2  被告人の主張するアリバイの内容

被告人が公判で主張するアリバイの内容は要旨次のとおりであり、この内容は公判段階を通じて一貫しているだけではなく、昭和六三年三月一〇日に録取された警察官調書(乙四)の内容とも符合している。

「昭和五九年一二月二八日午後三時ころ、自分と同じく乙野教の信者であるM子を自分の車に同乗させて、同女の姉の嫁ぎ先である蒲生町石塔のE"方を訪ね、当時闘病中であったE"の病気が治るよう『お浄め』を行った。同日午後六時ないし七時ころ、M子を自宅まで送り届けたところ、M子方では、同女の夫のN、O、Nらの親方(後にF"という名であると知る)が酒を飲んでおり、Nに誘われて一緒に飲酒した。途中で酒がなくなり、Nが酒を買いに行って、更に皆に酒を注いでくれた。Oらは帰宅したが、自分は酔って寝込んでしまい、この夜は結局N方に泊めてもらった。翌朝、M子からコーヒーをごちそうになって帰宅した。」

3  被告人のアリバイ主張に至る経緯

(一)  被告人は、昭和六〇年九月一七日に日野警察署で任意で取調を受けた当初は、「昭和五九年一二月二八日夜は勤務先で夜勤をしていた。」と供述していたが、警察官から勤務先が同日の夜は年末の休業期間であったことを知らされると、「同日夜は自宅で寝ていた。」と供述を変えたが、他所で外泊したとの弁解はしなかった(証人B' 第一回)。

(二)  同じく、昭和六〇年九月一七日に日野警察署で取調を受けた被告人の妻D子は、被告人は昭和五九年一二月二八日夜には帰宅せず、翌朝帰宅した時に、被告人は「石塔にお浄めに行き、在所まで戻ってきて、そこで飲酒して泊まってきた。」旨を述べたと説明した(甲一二〇)。

(三)  警察官らは、昭和六一年夏ころ、被告人の親戚であるG"子、H"子らから、被告人が当日夜はM子方で宿泊したと主張しているとの聞き込みを得た(証人B' 第一回)。

(四)  昭和六三年三月九日から、任意で被告人の取調を開始したが、被告人は当初は、前記のアリバイ主張をし、同月一〇日にその旨の警察官調書(乙四)が作成された。

(五)  なお、被告人は、昭和五九年一二月二八日のしばらく後の時点において、叔母の夫にあたるLに対して、当夜は丙山酒店(E子方店舗)で飲酒していたが、途中で外に出た、と説明していたことが認められる(証人L)。

4  アリバイに関係する者の証言内容

(一)  M子の証言

証人M子の供述内容は要旨次のとおりであるが、この中のお浄めに行った日付については、はっきりしない部分がある。なお、同証人は、第四八回公判における証人尋問の直後に法廷において高血圧症により倒れ、続行分の尋問は臨床尋問によってなされた。

「被告人及び被告人の妻とは、乙野教を信仰する関係で知り合いである。被告人が、自宅で酒を飲んだり、泊まったりしたことは一度もない。

昭和五九年の暮れに、夫Nの親方であるF"が自宅に給料を持ってきた日の夕方、夫、F"、Oが酒を飲んだことがあった。自分は、そのとき最初から家におり、コップやつまみを用意するなどした。酒はF"が用意してくれた。途中から被告人が酒を飲むのに加わったことはない。

妹の夫であるE"が病気になっていたため、被告人とE"方にお浄めに三回位行った。一回目は昭和五九年一一月末か一二月初旬で、二回目はその明後日で、三回目は同年一二月二六日ないし二七日ころであったと思う。お浄めの日と自宅で夫やF"らが酒を飲んだのは別の日である。」

(二)  Nの証言

M子の夫であるNの証言内容の要旨は次のとおりである。

「被告人が、妻M子の宗教の関係の知人であることは知っていたが、これまで特に付き合いはなかった。被告人と一緒に酒を飲んだことは一度もない。

昭和五九年当時は、F"の下で土木作業員として稼働しており、給料はF"が自宅まで持ってきてくれていた。給料日に酒を飲んだことは一、二回あるが、日は特定できない。

昭和五九年暮れの給料日にもF"が酒を持ってきて、Oもその後加わり、皆で酒を飲んだことがある。妻M子はそのとき在宅していた。

このとき、被告人が加わって飲酒したことはない。

被告人と妻M子がお浄めに行ったことがあるとは全く知らなかった。」

(三)  Oの証言

Oは、F"の下でNらとともに土木作業員として稼働していたものであって、証人として次のように供述している。なお、同人は、被告人の妻の縁者であるとともに、E子とも遠い親戚にあたるらしいとも述べている。

「F"の下で働いていたとき、給料はN方で受け取っていた。昭和五九年一二月の給料日がいつであったかは忘れたが、午後六時三〇分ころ、Nからの電話の連絡を受けて、同人方で給料を受け取り、F"やNらと酒を飲んだ。酒の肴はタコの刺身であったと思う。一時間ないし一時間半ほどN方にいたが、その途中、午後七時ころ、窓ガラスの外に被告人が立っているのを、窓越しに見た。被告人は中には入って来なかった。

M子は、酒を飲み始めた当初は在宅していなかったが、自分が帰ろうとするときに縁側から部屋の中に入ってきた。」

(四)  F"の証言

F"は、蒲生町内で日の出建設の屋号で土木建築業を営み、人夫としてNやOらを雇い入れていたものであって、証言の内容は次のとおりである。

「昭和五九年暮れの人夫に対する給料は、戊山工業社から回ってきた小切手を換金して、その日のうちに支払った。警察で、小切手の換金日を調べてもらったところ、一二月二八日であった。

銀行で金を受け取った後、支払いや他の人夫への給料の支払いを済ませ、N方で同人に給料を渡したのは午後六時ころであったと思う。一〇ないし二〇分後にOもN方へやってきて、同人にも給料を渡した。年末であることから、一杯飲もうということになり、自分が用意した日本酒(一升瓶)及びタコの刺身で、NやOとともに飲酒した。M子は在宅しており、コップや皿を出すなどしてくれた。途中で酒を買いに行ったことはない。その間来客はなかったし、被告人を見かけたことはなかった。被告人とはこの法廷以外で会ったことはない。」

(五)  I"子、J"子、K"の各証言

I"子は前記M子の妹で故E"の妻であったもの、J"子はその娘、K"は右J"子の夫であるが、これらの者の証言を総合すると次のとおりとなる。

「E"は長く闘病していたが、昭和五九年一〇月ころから容体が悪化し、昭和六〇年一〇月に死亡した。

昭和五九年ころ、M子に勧められ、E"に対して何度かお浄めをしてもらったことがある。最後にお浄めをしてもらったのは、昭和五九年の年末であり、嫁いだ娘J"子夫婦が里帰りをしてきたのはその日であった(証人I"子)。

昭和五九年暮れのK"の勤務する会社の仕事納めは一二月二八日であり、その翌日の昼過ぎに、京都府久世郡久御山町内の自宅を自動車で出発し、途中で買い物をしてから、高速道路を通ってE"方に着いたときにはまだ暗くない時間であった。K"夫妻がE"方に到着したとき、M子と拝む人が来ており、E"の病室で大きい声で拝んでいるのが聞こえた。拝む人とM子が帰ったのは夕食前であった(証人K"、J"子)。」

5  被告人の供述及び各証言の検討

(一)  被告人のアリバイに関する公判供述の内容は、M子とE"方へお浄めに行くことになったいきさつに始まり、Nらと飲酒した状況、途中で酒がなくなって買いに行ったこと等、相当具体性に富んでいるといえる。

(二)  しかしながら、被告人がともに飲酒したと主張する相手方及びお浄めを受けた相手方の供述とは全く一致していないことは明らかである。

まず、証人F"の供述では、昭和五九年一二月二八日夕刻にF"がNやOに給料を渡し、その席でこれらの者がともに飲酒したことはあったが、その席に被告人が加わったことはなかったとされ、証人M子、同N、同Oの各証言もこれと同じであり、しかも、証人M子及び同Nは、そもそも被告人に自宅で酒を振る舞ったり、被告人を自宅に泊めたことはないという。

(三)  確かに、各証言の間では食い違う部分もあるが、被告人が酒席に加わったことはない、との根幹部分では一致しており、食い違う部分はいずれも微細な問題ばかりである。

仮に、被告人が真実酒席に加わっていたとすれば、親方と人夫の間の個人的な酒宴に全くの部外者が加わったわけであるから、同人らの記憶に残らないはずはなく、これらの者は被告人が無実であることを知りながら、口裏を合わせて被告人を陥れていることになる、これは偽証になるばかりか、人倫にもとる行為であるが、いずれの証人にもそのようなことまでして被告人を罪に陥れる理由は見当たらず、むしろ、右証人の中には、被告人と同一の信仰を有するM子や、親戚関係があるOも含まれている。

(四)  弁護人は、本件が起きた地域には「見ざる、言わざる、聞かざる」の反権力の精神風土があり、加えて、証人N、同F"らの供述態度に現れる「警察の取調に対する悪意の持ち方」からみて、警察がこれらのアリバイ関係者に執拗な事情聴取を行ったことが窺えるのであって、その結果、これらの者は警察の意向に副う供述をしているのであると主張する。

しかし、右主張には、そもそもその前提に矛盾があると思われる。当該地域に反権力の精神風土があるならば、むしろその地域の住民は無実の者を救済することには尽力するかもしれないが、事実を曲げてまで警察の意向に副うことに抵抗するはずであり、「反権力」と「警察の意向に副う」ことは相いれない概念である。

そして、反権力の風土に育った者であるから、無実の者を重大な罪に陥れるような偽証をするというのは、偏見そのものである。

(五)  確かに各証人の態度や供述からは、本件の捜査の過程で何度も警察官に事情を聴取され、公判廷で証人として呼び出されるに至ったことを煩雑に感じていることが窺われ、そのため被告人に対して憤りを態度に示す者もあるが、これは犯罪と無関係の者が犯罪捜査に巻き込まれた際に示す態度としては通常のものである。

各証人は被告人が強盗殺人の罪に問われていることを知り、宣誓して証言しているのであり、敢えて虚偽の供述をしてまで被告人を陥れようとするほどの悪意をこれらの者が抱いているとは到底考えられない。

特に、M子の証言中には、あいまいな部分が多く、できれば供述を避けたいとの態度も窺われ、これは同じ宗教の信者に不利な証言をすることに対するためらいによると思われるのであるが、その同女さえ被告人が酒宴に参加したり宿泊したことを断定的に否定しているのである。

(六)  なお、F"の証言内容は、小切手の換金という不動の事実を前提にした内容であって、同人と被告人は従前全く面識はなく、利害関係は皆無であるという立場に照らしても、その信用性は高く、これによれば、昭和五九年一二月二八日にN方で酒宴が開かれたこと自体は認められるところである。

とすれば、被告人は、誰から教えられるまでもなく、同日に酒宴が開かれた事実を知っていたことになるのであるが、証人Oの供述によれば、被告人が当日窓越しにN方の様子を覗き見たことが認められ(この事実は被告人の捜査段階の自白で認めていたことである。)、これによれば、被告人は覗き見によって得た知識によってアリバイ主張を組み立てていると考えられるのである。

(七)  次に、E"方へお浄めに行った日についても、証人I"子、同J"子、同K"の各証言を総合すると、それは昭和五九年一二月二八日ではなく、翌二九日であったと確定的に認めることができる。

すなわち、お浄めの日が娘のJ"子の里帰りと重なったことは各証人の記憶にはっきりと残されており、里帰りの日はK"の仕事納めの日の翌日という動かし難い根拠によって一二月二九日であると確定できるからである。

(八)  以上によれば、被告人が公判で主張しているアリバイは、いずれの面からみても虚偽というべきである。

6  弁護人側の証人の供述について

(一)  証人D子(被告人の妻)及び同M'子(被告人の妹)は、それぞれM子に対し、被告人がN方に泊まったことがあるかを確認したところ、同女はそれを認めたという内容の供述をする。

しかし、各供述はいずれも伝聞供述に過ぎず、M子の証言の弾劾としてはともかく、これを事実認定のために使うことは許されない。

また、証人D子は、昭和六〇年一月及び同年一一月にM子と会った際に、被告人が泊めてもらったことの礼を述べたところ、同女もこれを肯定する発言をしたと供述するのであるが、昭和六〇年九月一七日及び昭和六三年三月一〇日の取調ではこれらの事実を主張した形跡がなく、これは全く不審と言わねばならない。

仮に、M子がD子やM'子に対して、被告人が宿泊したことを肯定するような発言をした事実があったとしても、同じ宗教の信者である被告人が、夜間に帰宅しなかった間の行動について、家族から責められるのを防ぐため、わざと被告人の嘘に加担して、家族の手前を取り繕ってやった可能性も考えられる。

そして、被告人のアリバイの主張は、M子の証言のみならず、被告人と全く利害関係を有しない証人F"、同E"、同J"子、同K"らの供述によっても否定されているところであり、これらに疑いを差し挟む余地はない。

(二)  証人古庄光は、被告人の弁護人の一人でもあるが、昭和六三年七月七日の被告人との接見時に、被告人から、「N方で飲酒したときに酒の肴としてタコの刺身が出た。」と初めて聞かされたところ、その後の各証人の証言により、現実にN方では当日タコの刺身が肴として出されていることが判明し、酒宴に出席していた者でなければこのようなことはわからなかったであろうとの印象を持ったと供述するが、前記のとおり、被告人は、当日N方での飲酒の状況を窓越しに覗いていたと認められるから、被告人はタコの刺身が肴であったことを知っていたとしても何等不思議はないことになる。

7  被告人のアリバイ主張が虚偽であることが意味するもの

(一)  一般に、ある犯罪の犯人と疑われている者について、アリバイの存在が証明された場合は、ただちにその者への容疑は消滅するであろうが、その証明に失敗したからといって、その事実だけでその者への容疑が強まるとは考えられない。

しかし、本件では、被告人の主張するアリバイは、その存在が証明できないだけではなく、明らかに虚偽であることが判明しており、この事実が持つ意味について検討を加える必要がある。

(二)  前記のとおり、被告人が昭和五九年一二月二八日夜に帰宅しなかったことは明白であり、T'子の証言やP'子の証言を総合すると、当夜は被告人はE子方店舗を訪れていた可能性が高いと思われるのであるが、一方、被告人が主張するように当夜は同女方へは足を踏み入れていないというのであれば、そのときに何をしていたかを明らかにすることは被告人にとってさして難しい作業であるとは思えない。

被告人の妻のD子の証言によれば、被告人は、若いころは外泊もたまにあったが、昭和五九年当時は外泊することは珍しかったと認められ、そのような折りに外泊したならば、その間の行動は比較的よく覚えていると思われる。

(三)  しかるに、被告人は、当夜の行動について、全く虚偽の事実を述べており、これは当夜の行動を隠したいからであると考えざるを得ない。

通常、家族や職場、近隣の社会に対してだけならば、犯罪に至らないような不道徳な行為や比較的軽微な犯罪を行った場合もこれを隠したいと欲する者が多いであろうが、被告人のように強盗殺人という最も重い犯罪の犯人として疑われ、その罪により起訴されている者が、そのような不道徳な行為や軽微な犯罪を隠すとは考えにくい。不道徳な行為や軽微な犯罪を申告することにより、強盗殺人の容疑を免れることができるのであるから、進んでこれらを供述する筈である。

とすれば、被告人が隠そうとしている事柄は、当夜にE子方店舗に赴いた事実及び本件犯行そのものではないかと強く疑われるのである。

(四)  なお、被告人がアリバイ主張に至る経緯によれば、被告人は、昭和五九年一二月二九日朝に帰宅した段階で、妻に対してN方で宿泊してきたという虚偽の事実を述べ、一方、昭和六〇年九月一七日の取調時には、夜勤についていたとか、自宅で寝ていたという虚偽の事実を述べているのであって、この段階までは当夜の行動について、供述を転々とさせていることが認められる。

その後、被告人が公判で述べたようなアリバイを一貫して主張するようになったのは、昭和六〇年九月一七日の取調後、妻から当初の弁解内容を聞かされて、これを思い出し、家族の手前もあって今更異なる弁解をすることができなくなったからであろうと考えられる。このような、被告人のアリバイ主張の経緯も不審であって、被告人の容疑を強めるものとなることは否定できない。

一〇 被告人の犯人性を推認させる情況証拠の評価

1  情況証拠の評価方法

以上で述べたとおり、被告人と犯人を結び付ける情況証拠は複数あるが、これらをどのように評価するかを以下に検討する。

一般に、情況証拠は複数集積することにより、推定力が強化されることはいうまでもないが、単にその数の多いといっても、同一方面の間接事実だけ(例えば動機や企図関係ばかり)集まっている場合や、一つ一つの証拠の内容が犯罪事実との関連性が希薄で、推定力が弱いものばかりである場合には、犯罪事実の証明としては不十分である場合が多い。また、犯罪事実を積極的に証明する事実だけではなく、逆に有罪認定を妨げる消極的証拠の存在についても考慮する必要がある。要するに、情況証拠によって犯罪事実を認定するためには、その数、方面、推定力の強さなどを多角的な見地に立って総合的に判断を加えるべきであると考えられるので、この前提に立って、本件について判断する。

2  被告人が犯人であることを示す徴表について

(一)  被告人が犯行時間帯にE子方店舗に居たこと

後記第六、三のとおり、E子に対する殺害は、おおよそ、昭和五九年一二月二八日の午後八時ころから午後九時ころまでの間に行われたと推認されるところ、被告人は、右犯行当夜の午後七時四〇分ないし四五分ころの数分後に、E子方とほど近い交差点を歩行していたことが認められ、この付近には、同店舗の他に被告人の立ち回り先があったとは考えられないうえ、証人P'子の証言によれば、右時間の少し後である午後八時ころ、E子方店舗において、同女が、客である可能性の高い人物と会話していたことが認められ、被告人が右酒店の壺入りの常連客であったことを併せ考えると、右犯行時間帯において、被告人は同女方店舗に居たものと推認することができる。

(二)  被告人がE子方店舗内で物色行為をしたこと

そして、昭和六〇年一月五日に、E子方店舗の机の引き出し中にあった丸鏡から被告人の指紋が採取されたことは、疑いの余地を入れるべくもない事実であり、この事実は、被告人においては、E子が、同店舗内に居る限りは、同店舗内の机の引き出し内を触ることなどはできないのに、E子が死亡したか、あるいは、E子が不在となったために、被告人が同店舗内でほしいままに行動する機会が生じ、その際に被告人が、右引き出し内を物色したことを推測させるものであり、その機会は、犯行当夜の一二月二八日の午後八時ころから、被告人が自宅に帰り着いたという翌一二月二九日午前八時三〇分までの間となる。

(三)  被告人は、E子の遺体の遺棄現場及び金庫の投棄現場について知識(認識)を有していたこと

そして、被告人が本件の犯人として逮捕された後は、捜査段階では自己が犯人であることを認め続け、警察官等から何等の教示、誘導を受けることなく、犯人でなければ特定ができないと思われていた手提金庫の投棄(発見)場所を正しく指摘し、更に、死体遺棄(発見)場所も正確に指示するなどしていることから、少なくとも、被告人はE子の死体及びE子方店舗兼住居にあった手提金庫の投棄場所を知っていたものと認められ、したがって、右の事実を通じ、被告人は、E子の死に繋がる犯行及びE子方店舗兼住居から手提げ金庫を奪う犯行にかかわったものと推認することができる。

(四)  被告人が、E子の失踪後、同女との関わりを避けていたこと

E子の失踪、死亡等が判明した後、被告人は、同女に相当世話になっていたにもかかわらず、捜索活動や葬儀等には参加せず、その参加できなかった理由について、納得できる説明をなし得ず、同女との関わり合いを避けようとしたり、その傍らでは、事件の翌日に被害者方店舗の様子を窺うかのごとき行動をとったり、同店舗の従業員H子に対して、「人を罪に陥れるようなことを言ってはいけない。」などと同女の発言に警告しているとも見られることからすると、被告人は、E子の失踪や死亡に関し、罪の意識を持っていたとするには、一般的な咎め立てをしただけであるとの弁解の余地もあり、論理の飛躍があり過ぎるとしても、少なくとも、E子との関わりから心理的に逃避し、あるいは、素直にそれらの行動に出られないこだわりが心理的に働いていたからであると推認されるのであり、したがって、被告人が、E子に対し、自己の心中にそのような精神的証跡を残すような行動をしたものと推測することができる。

(五)  被告人は、本件犯行の隠蔽のため虚偽のアリバイ主張をしていること

一方、被告人は、犯行当夜は自宅に戻っていないことを自認しているが、その間の行動に関しては、当初はE子方店舗にいたが途中で帰宅したと言ったり(証人L)、出勤していた、自宅で寝ていた(昭和六〇年九月一七日の取調時の弁解)などと主張を変転させた上、昭和六一年夏ころからは、M子方に宿泊したとアリバイの主張を始め、公判廷でもこの弁解を繰り返しているが、これは全くの虚偽であることが認められる。しかして、被告人が、虚偽のアリバイを主張したのは、被告人には同夜の行動を隠したいためであると推測されるところ、被告人は本件犯行以外に秘匿すべき事情を何ら提示していないことに徴すると、被告人は本件犯行を隠し立てするために虚偽のアリバイを主張していると推認するほかはない。

(六)  以上のとおり、被告人が、犯行当夜、E子方店舗(兼住居)に居り、犯行に及ぶ機会があったこと、被告人が右店舗内で物色行為をした痕跡(指紋)があること、被告人は、本件犯行に係わった者でなければ知り得ない死体遺棄(発見)現場及び手提金庫投棄(発見)現場を知っていたこと、被告人が、E子の失踪後、E子の探索、仏事に出かけるのを避け、公判で虚偽のアリバイを主張する理由としては、本件犯行以外には考え難いことは、いずれもが被告人がE子を殺害して手提金庫を奪取した犯人であるとの結論を合理的に推測させる徴表であって、その推定力は一つづつを取り出しても、程度の差はあるとはいえ、かなり強固であるが、これらの徴表(間接事実)が経時的に存在し、相互に関連し結合していることによって、更に揺るぎなく証明しているといえる。

3  一方、被告人が本件の犯人であるとの認定を阻害する証拠の有無についても検討を加える必要がある。

(一)  まず、被告人には、当時金銭に窮迫していた事情は窺われず、被告人に犯行の動機があるかが疑問となる。

(1) D子の警察官調書抄本(甲一二〇)、被告人の公判供述等によれば、被告人は数次の転職はあったものの、真面目に稼働しており、本件当時は、夜勤専門の工員の職にあり、妻や長男も働いていたのであって(ただし、当時の被告人を含む家族の収入、家計の内容は明らかでない。)、次女の結婚を控えていたことから、その資金のやりくりには被告人の妻は相当頭を痛めていた様子は窺えるものの、借り入れ等の目処はついており、さしたる前科もなく飲酒を除いては格別の問題のない被告人が、強盗殺人という重大犯罪を犯しても金銭を手に入れようと思い詰めるほどの事情があったかは、確かに疑問である。

(2) しかしながら、一応のやりくりはできていたというものの、被告人方の経済事情がかなり苦しいものであったこともまた事実であり、酒好きの被告人が望みとおり飲酒できる状況にはなく、妻から与えられる小遣銭も潤沢であったとは考えられず(被告人の自白調書では、常時五〇〇ないし六〇〇円以下しか所持していなかったとの部分がある。)、飲酒をするために自由になる金銭を得たいという考えを抱いたとしても不思議ではない。更に、次女の結婚に引き続き、長女も適齢期に達していたから(長女は昭和六一年に結婚している。)、長女にも次女同様の結婚のための支度をしてやろうとすれば、被告人方の経済が一層圧迫されることも目に見えている。

(3) 一方、E子方の酒店は、被告人の目からみてもかなり繁盛している様子であり(被告人の公判供述 第六六回公判)、同女の財産を相続した養子のGの証言(第二回)中にもE子が多額の預金をしていたことが窺われるなど、同女は一応資産家と認められ、しかも本件当時は年末であるから、回収された多額の売掛金が同女方に保管されている筈であると、被告人が考えても不思議ではない(実際は、日中に銀行員が二〇〇万円以上を集金しているため、さほどの現金は被害者方にはなかったと思われる。)。

これによれば、一応の生活はできているとはいえ、裕福とはいえない被告人が、E子が保有しているであろう多額の現金に目がくらみ、強盗殺人という大罪を企図するに至ったとしても、あながち不自然とはいえず、被告人には動機がない、ということはできない。

(二)  第二に、弁護人らは、被告人が犯人であるならば、E子方等にもっと多数の指紋等が遺留されていてしかるべきであり、丸鏡に残された指紋しか発見されなかったことは、かえって被告人が犯人ではないことを示しているとする。

しかし、この点は前述のとおり、同女方店舗の指紋等の保存に全く注意が払われていなかったことを考えれば、むしろ鏡に残された指紋のみが保存されていたことは十分理解することができるというべきであり、弁護人の主張は採用できない。

(三)  最後に、被告人が一旦捜査段階で自白しながら、右自白には明らかに虚偽の部分が含まれているのであるが、このこと自体が情況証拠によって被告人が犯人であると認定することを阻害するかを検討する。

(1) 確かに、被告人の自白調書中には、いかにも本件を反省悔悟して全面的に罪を認めるかのごとき文章が含まれながら、その中に虚偽の事実が含まれているのであるから、結局被告人が自白するに至った理由は何であるかを知ることはできない。

(2) しかし、真犯人が一応その犯行を認めるに至ったとしても、それが重大犯罪であればあるほど、全部の事実を告げることについては躊躇を覚えるものが少なくない筈であって、少しでも自己の責任を軽くするために、犯行の動機、態様、被害額等に虚偽を混ぜて供述する者があることはよく知られている。

被告人もこのように真実と虚偽を混ぜながら供述していたことは十分考えられるところであり、しかも、本件の捜査では、E'検事が、供述の任意性を確保するために、取調に当たって誘導することを厳禁しており、取調官らもこの注意をよく守ろうとして、被告人の供述内容のうち、疑問がある点についても一応は質すものの、被告人が頑強に言い張る場合にはそれをそのまま受け入れるが故に、被告人としても自白に含まれた虚偽の部分を訂正する機会のないままに供述を重ねていったとも考えることができる。

(3) いずれにせよ、被告人の自白の中に虚偽部分が含まれるからといって、被告人が犯人であると、他の証拠によって認定することの妨げにはならないというべきである。

(四)  以上によれば、いずれの事情も犯罪事実の認定を阻害するとは考えられず、前記のとおり、被告人が犯人であるとの認定は合理的な疑いを差し挟む余地のないものというべきである。

第六結論

一 第四、第五項において詳説したとおり、被告人の自白調書の内容は必ずしも信用できないが、その他の情況証拠によって被告人が本件犯行の犯人であることは認めるに足るということができる。

そこで、以下、自白以外の証拠によって、どの程度被告人の犯行を特定できるかを検討する。

二 殺害現場の特定について

1  まず、E子が殺害された場所については、犯行当夜はかなり気温が低下していたにもかかわらず、死体は、いわゆるエプロン掛けの普段着姿のまま発見されており、足元には履き物がなかったことや、E子は夫の死後、かなり用心深くなっており、しかも自宅には高齢の叔母I子がいるにもかかわらず、夜間にうかつに外出することは考え難いことなどに照らすと、同女方において殺害された後、死体発見現場に死体を遺棄されたという可能性はかなり大であるというべきである。

2  しかし、一方、犯行当夜、向かいのP'子を含め、E子方から異常な物音を聞いた者がいないこと、同女方には、商品や家具が多数あり、かなり狭くなっているにもかかわらず、翌朝に従業員のH子が出勤した段階では特段争ったような形跡がなかったこと、証人H子の証言(第一回)によれば、E子が普段に使用していたピンク色のサンダルが事件後に紛失している可能性があることなど、同女が店外に連れ出され、外部で殺害されたことに結び付く証拠も存在する。

3  そして、被告人はE子方店舗の常連客であるばかりではなく、同女を歯医者まで連れて行ってやったことなどがあったことに照らすと、被告人が同女を遠くまで連れ出すことは困難としても、比較的短時間、近い場所までなら、何らかの口実を設けて店外に連れ出すことはあながち無理とはいえない。

4  死体は外套類を着用していないのであるが、その代わりかなりの枚数の着衣を重ね着していたことが認められるし、被告人は、当夜も軽トラックに乗車して同女方店舗近くまで赴いていたと考えられる(証人T'子)から、何らかの口実により、同女を自己の運転する軽トラックに乗車させることができれば、その後は勝手に同車を運転して同女を遠方に連れ出すことも可能であり、犯行場所が同女方の外である可能性も否定できない。

5  以上によれば、被告人がE子を殺害した現場については、同女方内であるとも外であるとも断定できないというべきである。

しかし、犯行当夜、被告人は軽トラックによって移動しているとはいえ、翌朝の午前八時三〇分には帰宅しており(証人D子)、この時点までには、E子の殺害、死体の遺棄または遺留、同女方内の物色、手提金庫の奪取までは完了していたと考えられ、更に死体の解剖結果によれば、E子は食後約三〇分程度で殺害されており、右食事は店舗内で摂取したと考えられる(昭和六〇年一月五日の実況見分時の店舗内の鍋の中身と死体の胃の内容物が一致する 甲九、一六)から、外部に連れ出されたとしても、それから少なくとも三〇分以内に殺害されていることが窺われる。

そして、同女の死体が日野町内で発見されたことも併せて考えると、被告人が同女を遠方に連れ出して殺害したとは考え難く、犯行場所は日野町内もしくはその周辺地域と認めるのが妥当である。

三 殺害の時間について

1  まず、証人P'子の証言によれば、昭和五九年一二月二八日午後八時ころまでは、E子の生存が確認されていることから、殺害された時間が右時刻以降であることは疑いがない。

また、被告人は、同月二九日午前八時三〇分ころには帰宅しているから、右時刻以前であることもまた疑いがない。

2  E子がいつも就寝していた奥一〇畳間には同女の布団を敷いた形跡がなく、前記のとおり同女は食後約三〇分で殺害されており、右食事は店舗内で摂ったものであるから、同女が殺害されたのは、就寝前であって、しかも夕食後約三〇分であったと考えられる。

なお、証人P'子は、P'子がE子の声を聞いたのと同じ時間帯にE子方の台所が一旦点灯していたと証言しているから、あるいはこの時に夕食を作っていたのではないかとも思われるが、残念ながらこれ以上同女の夕食時間や就寝時間を特定する証拠は見当たらない。

3  なお、前記のとおり、被告人は午後七時四〇分ないし四五分ころの数分後、E子方近くの路上を歩いており、その後の午後八時ころに同女と会話していた相手は被告人と認められるところであり、同女と被告人は親しいとはいえ、所詮酒店の店主と常連客の間柄に過ぎず、同店の閉店時刻は午後八時ころであった(被告人の第六六回公判供述)ことを考えれば、同女が深夜まで被告人が店にいることを許したとは考えられず、被告人が店舗内で同女の隙をついて殺害したにせよ、甘言を用いて外部に連れ出して殺害したにせよ、同女と被告人が店舗内で会話をしていた午後八時ころに比較的接着した時間帯に被告人は同女の殺害に及んだと考えられる。

そして、前記のとおり、同女の殺害が食後約三〇分であったことも考慮にいれ、社会通念に照らして考えれば、被告人が同女を殺害したのは、昭和五九年一二月二八日午後八時ころ以降から遅くとも午後九時前後の時間帯と認定するのが相当である。

四 被害品について

1  まず、山中で破壊された状態で発見された手提金庫が被害品であることは確実である。

2  右手提金庫中には、手提金庫発見現場付近に散乱した状態で発見された遺留品が在中していたと認められる。

3  その余に何が右金庫に在中していたかについては、前記認定のとおり少なくとも古銭、記念メダル、記念硬貨類が入っていたものと推測されるのであるが、その古銭類の中に具体的にどのようなものが含まれていたかについては、結局特定は無理というべきであるし、検察官の訴因に含まれていないため、この点につき判断することはできない。

3  次に、前記のとおり、積立定期預金七冊在中の茶色手提カバンも被告人によって強取されたのではないかと思われるが、この点は、検察官の訴因に含まれていないので、判断を差し控えることにする。

4  その他の被害品については、特定する資料もなく、検察官の訴因にも含まれていないので、判断をすることはできない。

5  以上によれば、本件の被害品として断定できるのは、前記手提金庫(時価二〇〇〇円相当)並びにその在中品、すなわち、手提げ金庫発見現場付近に遺留されていた郵便振替払込金受領証一枚、印鑑入一個、赤色プラスチックラベル一個、名刺二枚、五銭硬貨一枚、一〇円硬貨一枚、御控メモ片二枚、デンマーク切手一枚、紙片三枚、診察券一枚、御守二通、検査証一通、小銭入れ一個(遺留品のうち、セロハン片は金庫内に残留していたゴミ類と考えるので、被害品としては掲げない。一〇円硬貨以外の時価は不詳である。)であると考えられる。

なお、検察官の主位的訴因及び予備的訴因では、現金以外の被害品は手提金庫等一五点(時価二〇〇〇円相当)とされており(なお、この中には一〇円硬貨は含まれていない。)、前記の金庫在中品の点数と齟齬する点があるが、これは検察官が遺留品を数え間違えたか、財産的価値がないとして被害品から除いた物があるからと思われ、基本的には公訴事実も、手提金庫及び同時に発見された遺留品を被害品として掲げていると考えられる。そして、右被害品の時価二〇〇〇円相当とは手提金庫の価格のみをさしていることは明らかである(甲二三)から、判示認定のとおり、結果的に公訴事実よりも被害品の点数が多くなっているとしても、訴因に含まれない事実を認定したことにはならない。

五 金庫奪取の時間

右金庫が奪取された場所が、E子方であることは疑いの余地のないところであるが、その時間については検討の余地がある。

前述のとおり、被告人は客として同女方に赴いていると考えられるから、同女の生前に金庫を取ろうとすれば、同女に騒ぎ立てられるはずで、金庫の奪取が同女の殺害前であることはまず考えられない。

しかし、物色や金庫の奪取が同女の殺害直後であるか、そのしばらく後であるかについては、情況証拠のみによっては断定できない。ただ、被告人は昭和五九年一二月二九日午前八時三〇分には帰宅しており、同女方店舗から抜け出す被告人を目撃した者が誰もいないことに照らすと、遅くとも被告人は同日の未明には同女方を離れていたと考えられる。

したがって、被告人が同女方を物色し、手提金庫を奪取した時間については、同女の殺害後、昭和五九年一二月二九日未明までの時間というべきである。

六 以上を総合すると、検察官の主位的訴因については、これを認めるに足る証拠がないが、予備的訴因については、証拠によって認めることができ、被告人の犯罪事実は、判示(罪となるべき事実)に掲示したとおりに特定されるのである。

(法令の適用)

被告人の判示所為は、平成七年法律第九一号(刑法の一部を改正する法律)附則二条一項により同法による改正前の刑法二四〇条後段に該当するところ、所定刑中無期懲役刑を選択し、前記改正前の刑法二一条を適用して未決勾留日数中一八〇〇日を右刑に算入し、訴訟費用については、刑事訴訟法一八一条一項ただし書を適用して、被告人に負担させないこととする。

(量刑の理由)

本件は、酒店の常連客であった被告人が、年末に同店の女主人を殺害し、金庫を奪取したという強盗殺人の事案である。

その経緯、動機は、未だ詳細は明らかでないとはいえ、いずれにせよ金品が目的であることは間違いなく、酌量すべき点は見出せない。

犯行の態様は、長年の壺入り客として信頼し、全く無警戒の被害者を突如襲い、確定的殺意をもって、何の恨みもない女経営者を一気に扼殺したのであって、卑劣かつ悪質である。

被害者は、夫の死後も、酒店の営業を続け、高齢の叔母を引き取り世話をするなど、近隣から面倒見の良い、親切な人として知られていた女性であって、被告人も同女から親切にされ、一方ならず世話になったにもかかわらず、金銭を奪うため同女を殺害したのであって、誠に冷酷、非情というほかはない。同女は、当時六九歳で、健康に不安はなく、近い将来、養子と同居し、余生を安穏に暮らすことを楽しみにしていたのに、突然、生命を断たれたのであって、その無念さは察するに余りあり、結果は重大である。更に、被告人は、犯行の発覚を免れるため、死体を荒れ果てた宅造地に捨て去り、真相の解明を困難にしながら平然を装い、捜査中はともかく、公判後は謝罪の気持を棄て去り、反省の情はいささかも示していない。遺族は、未だに、被告人が真実を述べず、犯行を頑強に否認しているため、悲しく口惜しい感情を抱いたまま、被告人から一片の謝罪も受けずにおり、当然のことながら犯人である被告人に対し極刑を望んでいる。

また、本件は、日頃は静かな地元の町を震憾させた凶悪事犯であり、その社会的影響も無視できない。

以上によれば、被告人の刑事責任は非常に重大であり、被告人は、これまで交通事故による罰金前科が一犯あるだけで、伴侶に恵まれ、一応大過なく長年職に就き、子供達を養育して来たこと、境界線級の知的能力者であるため、前後の見境もなく、自由になる金員を得たいとの思いにとらわれ犯行に走ったとも考えられ、周到な準備と計画のもとに実行したとは認めるに足る証拠はないこと、本件の審理のために被告人はすでに七年余にわたって勾留されており、その間に体調を崩したりもしたこと等を有利に斟酌してもなお、被告人に対しては、無期懲役に処し、永く被害者の冥福を祈らせることを相当と認めた。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 中川隆司 裁判官 坪井祐子 裁判官片山憲一は転補のため署名押印することができない。裁判長裁判官 中川隆司)

<以下省略>

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例